日本キリスト教団

2020.10.11 説教ダイジェスト
礼拝説教要旨 「永遠の家」
コリントの信徒への手紙Ⅱ 5章1-5節

  10月の2週目。教会暦で、一巡りの終わりにさしかかる。この世の歩みを終 えて神のみもとに行くことを思う時期だ。

 私たちは、この世を去ってから、神のみもとに行き、神様が用意してくださっ ている「永遠の住まい」を与えられる。この世では肉体という「天幕」をもって 歩んでいるが、神のもとには住まい、「建物」が備えられている。

 その建物は、永遠の住まい。永遠とは神様のこと。神様がくださる住まい。そ して、永遠に存在し続けるもの。私たちの安住の地は定まっている。神のもとに ある住まい、神が用意してくださっている永遠の住まいだ。心強いことだ。

 ヨハネ福音書14章1節で、イエスは神のみもとには、私達それぞれに住むと ころがあると言っている。この世に落ち着くところがないかもしれないが、神の 家には、落ち着いて身を置くところ、住むところがある。

 わかりにくい言い方だが、パウロはこの「住まい」「建物」を「着る」のだと いう。住まいを着るほどに、その住まいは着る人と密接なもの、金輪際離れるこ となく一体となって存在し続ける。しっかりとした建物が、その人を守り続ける ということをイメージしているのだろう。神のもとに行った私たちは、命に飲み 込まれてしまうという。神様の命、永遠の命が私たちを覆い包み、私たちの周り は永遠の命で満ち溢れる。

 この世の歩みを終えて神のもとに行くと、そこでは神様によって永遠の住ま いが備えられ、永遠の命に豊かに満たされる。イエス・キリストによって、私た ちには、このような素晴らしいことが約束されている。パウロは、このことを信 じ、これからを信じ、この世を歩んでいたのだ。

 パウロが福音伝道に励むのだが、それは並大抵の苦労ではなかった。直前の4 章では、キリストの死と復活が、パウロの原動力であるという。肉体、外なる人 は滅びても、内なる人、魂や精神、目に見えないものは、いよいよ救いを求める 思いを深めるという。そのように言ってから、神のもとには永遠の住まいがある と語る。

 パウロは福音を信じ語る人だったので、その働きをやめなかった。自分が信じ 語ること(語っている内容)が、自分に苦労を招いているのだが、自分が信じ語 ること(福音)が自分を力づけ、決してなくなることのない希望を与えられた。福 音を伝える人、伝道者とはこういう人だ。信じ語っていることが、その人自身の 生きる力となっているのだ。信じ語っていることが、生きる理由となっているの だ。他の手紙では、「生きることはキリストである」と言っている。このような 生き様が、本物の伝道者だったことを物語っている。伝道者の模範だと思う。

 ヨハネ福音書6章で、イエスは「命のパン」であると言う。「朽ちる食べ物の ためではなく、・・・永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。」(27節)。少 しでも神様のためになりたいという方が、家庭集会の証で、この聖句を取り上げ ていた。牧師である我が身を改めて思った。自分が何をしているのか気づかせら れ、教えられた。永遠の命のパンは、永遠の命のパンを受け取る人ばかりでなく、 永遠の命のパンがあることを語る人、その人自身を生かし養う。

 パウロの言葉で、気になる言葉がある。「無駄」に走ったのではないか、とい う言葉。パウロは、自分のやったことが無駄になるという不安や心配と、いつも 向かい合わせだった。しかし、Ⅰコリント15章で「わたしの愛する兄弟たち、 動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれている ならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知ってい るはずです。」(58節)。伝道が振るわない、成果が上がらないことを思うと、 このパウロの言うこと 21が我が事のように感じられる。人は、自分の人生が 無駄だったのではないか、ふと思うことがあるものだ。本当に無駄なか。今はわ からなくても、永遠の住まいを得て、神のもとに行ったならわかるのだと思って いる。人知を超える神の計らいがある。私自身について、無駄だったとは思って いない。

 今日の箇所で、パウロは語っている。私たちに向かって語り掛けている。今、 私たちはこの世に天幕の中にある。しかし、神のみもとに、神が備えてくださっ た永遠の住まいがある。キリストの十字架によって、私たちには、天に住まいが ある。何によっても揺らぐことがない、何も心配することはない、すべてが神の 愛の中にある、本当の安心と休息がある。永遠の命がある。

 
   
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