神様はイザヤの口を通して、ユダの国の人々は罪を犯していると告げています。 神を尊び信じる気持ちは失せ、人への誠実さは失われている。しかし、この罪人の 国に、神様は救いをもたらそうとしてくださっています。
私たちが罪を犯してしまったならば、神様は、私たちがどうしてそういうことに なったのかを思い出してくださいます。そして、一人ひとりが神に帰ることを信じ
てくださいます。ユダの国をもう一度、名実ともに神の民になるようにユダヤの民 を信じ助けてくださいます。
この当時、ユダの国の人々は、遠くバビロンの国からユダの国に帰って来て、神 殿を再建しました。神殿再建は困難を極めましたが、やっと神殿を再建することが
できました。エルサレムの第二神殿と呼ばれる立派な神殿が経ちました。
ユダの人々は、「神殿を建てたなら」、神を尊び、隣人を慈しみ、何不自由なく暮 らせる、素晴らしい生活がある。「神殿を建てたなら」、と誰もが期待していました。 しかし、現実はそんなに甘くはなかった。バビロンから帰った人々が生活する場所 は、決して満足のいく環境ではなかったのです。
エルサレムにとどまっていた人に歓迎されなかった。誰も助けてはくれない。住 む場所も食べる物も不確かです。秩序のない荒れ野に放り出されたかのようです。
神殿は再建したけれども、一人ひとりの生きる条件はとても悪かった。隣人愛など 信用できないすさんだ社会だったのです。「神殿を建てたなら」という期待は、現実
の社会の厳しさには勝てなかった。
「主は人ひとりいないのを見/執り成す人がいないのを驚かれた。」罪人を神様 にとりなす人がいない。罪を悔い改めて神様に立ち帰りましょうと促す人がいない。
人間は皆、罪人ばかり。誰も隣人の助けにはならない。それで、人間には全く期待 できない時に、神様は慈しみをもって、自ら動きだされるというのです。
私たちを救うのは、ユダヤの人々のような「神殿を建てたなら何とかなる」とい う思い、神殿を建てることによるのではありません。神様の愛を信じることです。
ユダの国が罪の国だと言われるようになったのは、それは現実の厳しさに耐えられない人間の弱さのせいです。神様をずっと信じ続けられないせいです。つまり、心
の弱さです。
「主は人ひとりいないのを見/執り成す人がいないのを驚かれた。」それで、誰 も気が付かないところで、神様が働かれたのです。神様は、愛する独り子をこの世
に遣わしてくださいました。神のみ子がお生まれになりました。私たちの力も助け も必要としない、神のみ子がお生まれになり、私たちに神の愛と救いの道を備えて
くださいました。
私たちの心は弱いです。私たちは現実の厳しさに耐えかねて、もしかすると信じ ることができなくなてしまうかもしれません。しかし、神様が私たちを愛し、私た
ちを信じていてくださるかぎり、私たちには救いがあります。こんなに罪深く、こ んなに弱い私なのだと思ったとしても、神様はずっとあなたの神様です。
もしも、赤ちゃんがパレスチナの荒れ野で生まれたなら、すぐに死んでしまうの ではないでしょうか。そう思うと、イエス様がお生まれになった馬小屋は、生まれ たばかりの赤ん坊の命を守る最低限の条件が整う場所でしょう。そこは、人間のた めに用意されたものはなく、薄暗く、動物たちが汚している場所です。そこは私た ちの身を置く現実の、その厳しさを象徴するような場所ではないでしょうか。
ヨセフたちは人口調査のために、ダビデの町ベツレヘムに戻らねばなりませんでした。ベツレヘムに行けば、宿るところがあるだろうと思っていたのだろうと思い
ます。しかし、宿屋はどこもいっぱいでした。 エルサレムに帰って「神殿を建てたなら」と期待した人たちは、期待を裏切られ ました。厳しい現実に追い詰められて、誰もが自分の心の弱さ、人間の弱さをどう
することもできなかった。罪人の国になったのです。誰もが何よりも先に自分のこ とを思い、現実は厳しかった。
エルサレムに帰ったユダの人々に、そしてベツレヘムに帰った身重のマリアとヨ セフに、現実は厳しかったのです。
神の子は馬小屋にお生まれになりました。どうして馬小屋だったのでしょうか。 人々の自分中心の思いによって、外へ外へと追いやられたからです。しかし、イエ
ス様は、馬小屋で、ここに私がいる、ここに神様がいる、ここに神の愛があると叫 び続けておられます。
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