ペトロ、アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとヨハネ。この人たちが、イエスに最 初に招かれた弟子たちだ。ガリラヤ湖で魚を捕る漁師たちだった。「あなたがた
を人間をとる漁師にしよう」と招かれた。ガリラヤの漁師たちが想像したことも ない未経験の大きな仕事へと招かれた。驚くべきことには、イエスの招きを受け、
「すぐに従った」という。
その理由の第1には、イエスには人を従わせる人格的な魅力があったこと。次 には、「すぐに従った」という言い方をしなければならないような出来事だった、
ということではないか。こういう言い方をしなければ、神に従う、イエスに従う ということは、私たち人間には起こらないと言いたいのではないだろうか。
ロシアの小説家トルストイが書いた小説に「光のある間に光を歩め」。本題に 入る前に前書きとして、当時のロシアの平凡な人々が数人で話し合っている場
面を設定し、若い人、老人、それぞれが今こそ、神様に従う生活を始めようと言 い出す。しかし、その思いを粉々に砕くような助言をし合う。そこにいる誰もが、
自分たちがキリスト教徒らしくない生活をしていることを自覚していながら、 いざ神に従う生活を始めようとすると、もっともな理由を言ってお互いにそれ
までの不信仰な生活に押し留めようとする。人が神様においそれとは従えない 難しさを描いている。今日の箇所のようなイエスに声をかけられたら、すぐに従
う姿が示されなければ、いつまでも従わない理由を並べ立て、俗世間に浸かって 生きてしまうだろうと思う。
俗世間に染まらないでいるための修道院がある。フランスのグランド・シャル トルーズ修道院は、イタリアとスイスの国境に近い山奥にあり、社会から全く隔 絶した土地で一日中祈りをささげるための場所だ。10 数年前に上映された映画 「大いなる沈黙へ」で、その内部の様子、そこでの修道士たちの様子が 3 時間に わたって紹介された。この修道院では、ただ祈ること、朝から晩まで祈ることが すべて。朝、夕の決められた共同の礼拝、食事以外の時間は、自分の部屋で一人 で何も言わないで祈っている。机に向かっているの姿、床に伏せって祈る姿、体 をへし折って机の下に潜り込んで祈る姿、祈りは神との格闘だ。何も言わない、 言葉は一つもない。これを毎日繰り返している。私達は「祈り」というと、神に 語り掛けることを思うが、むしろ神に聴くこと、黙想。だから、言葉はいらない。 これが目的でこの修道院はある。神様と一人の人間との交わり、関わり、格闘が ある。
500 年前、宗教改革者ルターは、信仰は人間の生々しい現実の中でこそ深めら れるとして修道院をなくした。しかし、気を抜くと、プロテスタントは俗世間に 埋没しやすくはないだろうか、日常生活に気を取られて神を見失いやすくなっ ていないか。自覚的に神を意識する工夫がなされることの大切さを思う。
イエスは、ペトロをアンデレを、ヤコブをヨハネを、ご覧になった。そして、 この人たちに声をかけられた。声をかけられたこの人たちは、声の主を探しただ
ろう。目の前にイエスの姿を見つけただろう。そして、イエスが自分を見つめて おられることに気が付いただろうと思う。
イエスはこの人たちをご覧になった。この人たちに目を向けて、私に従ってほ しいという思いを込めて見つめられた。「ご覧になった」見るという言葉、オラ オー、見ること、そして、見ることによって見たものがどういうものかを知るこ とを言う。イエスは 4 人の人を見た。それで、その人たちがどういう人なのか、 何をしているのか、何を思って生きているのか、ひとりひとりのすべてを見られ た。見抜かれた。イエスは一人ひとりに期待しておられた。
イエスの眼差しを受けた人たち、イエスの眼差し以外、それ以外のものは目に 入らなかったことだろうと思う。イエスに従わないという理由は見つからなか
ったのだろう。もう理屈、理由ではない。 イエスの眼差しに応えることだけだ。 これが、すぐに従ったということだ。
普段の生活から離れてみて、違う角度から見て、今まで見えなかったことが見 えるということがある。さらには、普段の生活から無理やり引き離されることも
ある。今日は 1 月 17 日、26年前の阪神大震災の震災の被災者が、そして10 年前の東日本大震災の被災した方々が、「震災前の生活を平凡で何気ないものと
思っていたが、それは幸せだったと気づいた」と言われる。苦しみ、悲しみの時、 私たちを普段の生活から引き離す。なんでこんなことが起こるのかという時、こ
の時ばかりは神様を思い出させるという時がある。神様の語り掛けを聞く時が ある。こういうことを見逃さないこと、なおざりにしないことが、イエスにすぐ
に従うきっかけになるのではないだろうか。
ガリラヤの漁師たちは、イエスに声をかけられて、すぐに従ったという。この ことは、この箇所を読む私たちに、「あなたはどうなのか」と問いかけている。 この問いかけに、答えはない。一人ひとりの、それぞれの答えがある。今、それ を探すことへと招かれている。私たちに温かい眼差しを向けてくださり、あなた は誰なのか、何者なのか、と、イエスは問いかけている。
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