今日の箇所に名前が挙がっている土地は、アッシリア帝国との戦争に負けて、奪 い取られた土地です。領土の半分以上を奪われました。アッシリアはとても野蛮な
ことで有名でした。もともと住んでいた人々が追い出され、アッシリアから多くの 人が入り込んでくる。住民の入れ替え、混ざり合いがありました。イスラエルの人々
は異民族を異邦人と呼んで軽蔑していましたが、アッシリアの人々、たくさんの異 邦人が入り込んでくる。民族の誇りを汚され、辱めを感じたのです。
多くの領土を奪われ、凶暴な軍隊が支配し圧政を行い、精神的にも、信仰的にも 重苦しい状況を余儀なくされたことでしょう。ゼブルン、ナフタリ、ガリラヤは「闇」
に閉ざされ、「死の陰」に覆われていると言っています。けれど、苦しい目に遭って いても、預言者は神様が救いの御業をなされると告げます。
この箇所の言葉が語られたのは、紀元前728年。ヒゼキヤ王が即位した年。イ ザヤは、ヒゼキヤが神様の御心を現す王様として働き、アッシリアを打ち負かすと
言っています。実際は、このヒゼキヤはイザヤが期待した救い主ではありませんで した。しかし、一人の王様、人に頼ったのは間違いですが、神様が救いをなされる
と信じていることは間違いではありません。
9:2「あなたは深い喜びと/大きな楽しみをお与えになり・・・」。「あなた」とは、 神様のこと。神様が御業をなされます。
そして、9:3「ミディアンの日」とは、何のことでしょうか。士師記7章で、指導 者ギデオンがわずか300人の兵隊で、何万というミディアン人の兵隊に打ち勝っ
たということがありました。ほんのわずかな兵隊で大勢の敵を追い払ったら、これ は神様が勝利をもたらしたということです。イスラエルの人々には、決して忘れら
れない出来事になりました。神様が救ってくださるのです。
イスラエルの同胞が苦しめられている時にも、重苦しい空気に覆われている中に も、イザヤははっきりと神様の救いを信じていました。この神様の御業を待つ信仰
を抱いていたことを覚えたいです。
今日の箇所の言葉を、マタイ福音書では、イエス様が宣教活動を始められたこと を告げる場面で引用しています。マタイ福音書4章15節です。私たちの住んでい
るこの世は、闇の中に閉ざされ、死の陰に覆われます。そこに、イエスによって救 2 いがもたらされます。闇の中に光が輝くのです。イザヤが告げた神の救いが、イエ
スによってもたらされます。イエスは、私たちがどんな時も神様に愛され望みをも って生きていけるようにしてくださいました。永遠の命に与って生きるられるよう
にしてくださいました。
聖書の中に「死の陰」という言葉を探してみました。詩編107編14節。 「13 苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと/主は彼らの苦しみに救いを与えられ
た。14 闇と死の陰から彼らを導き出し/束縛するものを断ってくださった。15 主 に感謝せよ。主は慈しみ深く/人の子らに驚くべき御業を成し遂げられる。」ここ
では、死の陰とは、身の危険、命の危機です。絶体絶命の窮地から救い出してくだ さる神様を讃えています。
もうひとつは、詩編23編「1 主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。 2 主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い・・・4
死の陰の谷を 行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。」 この詩編は、私たちの人生を旅に喩えています。慈しみ深い羊飼いに導かれる人
生の旅です。私たちの人生の旅、それはどの人の旅も、いつか死を迎えるという運 命のもとにある旅、死の陰の谷を行く旅なのです。私たちが生きているということ
自体が、死の陰の谷を行くことなのです。
しかし、だからといって人生を消極的に思ったり、諦めてしまうことはない。誰 を人生を導き羊飼いとするのか、これが人生を決めるのです。神様を羊飼いとする
なら、イエス様を羊飼いとするなら、私たちの人生の旅、死の陰の谷を行く旅でも、 恐れることはないのです。
私たちは誰もが、死の陰の地に生きています。しかし、神様が共におられるなら、 苦しみの中にも喜びがあります。神様だからこそもたらすことができる喜びがあり
ます。神のみ子イエス様が、十字架にかかって救いをもたらしてくださいました。 それは、神の子イエス様を神様が捕らえ、愛し力づけてくださったからです。
讃美歌Ⅰ編533番「くしき主の光」。私たちの心の中に主の光が輝いています。 「ああ主よ、かがやくみすがたを 胸にうつすとは わが主の恵み」。主の御姿(英
語の歌詞で、どんな時も微笑むイエス様)を思い起こす度に、恵み豊かなことを思 い、喜びに溢れると歌います。私たちも、神様の救いを喜んで歌いたいと思います。
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