日本キリスト教団

2021.01.31 説教ダイジェスト
礼拝説教要約 「本当の願い」
マタイによる福音書5章17-20節
 神様の御心は、神のみ子であるイエス様によって表されていることを覚えま しょう。イエスの言葉、行い、救いの御業は、福音書に記されています。

 さらに、マタイ福音書は5章から7章に「山上の説教」と呼ばれるイエスの教 えをまとめています。それまで誰も語らなかったこと、イエス様独自の教えが記 されています。

 今日の箇所は、その山上の説教の一部分です。 今日の箇所は、山上の説教の前書きのようです。イエスの教えを聞くための心 構えをしようというのです。イエスが来られたのは、律法を廃止するためではな い。完成するためだと言われます。神様の目からすれば、ユダヤの人々の律法の 守り方、それは不完全だというのです。そこで神様は、御子イエス様をこの世に 遣わされ、神様の御心を余すことなく示され、律法を守るということはどうする ことなのか、律法を完全に守るとはどうすることなのかを示されたのです。

  「ファリサイ派の義にまさる義」、これは具体的に何のことを言っているので しょうか。7章12節の「黄金律」のことです。「人にしてもらいたいと思うこ とは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」これ が、神の御心です。これが律法を完成します。

  ユダヤの人々は、熱心に律法を守ってきました。ある人にとっては、命がけで した。安息日を守るためには、戦争もやめました。このような、律法を守ろうと する熱意と努力に敬意を払いたいと思います。しかし、いつもいつも命がけであ ったのではないのです。

  マタイ福音書15章、23章には、ファリサイ派の人々が律法の戒めを自分の 身を守る言い訳、道具にしているということを指摘しています。守りやすくしよ うと解釈を加えたり、言葉を読み替えたりしている。律法を守ることは、神様を 尊んでいるからではなく、自分のためだからです。

  私たちが神の戒めを守るのは、神を尊び愛しているからです。神のためです。 これは立派なことです。しかし、神様の願いはそれだけではないはずです。神の ために守るだけでなく、隣人のためです。隣人を尊び大切にするためです。そし て、自分自身が神に喜んでいただくためです。戒めを守る、それは誰のためか。 それによっては、同じ守ることでも、意味が変わってきます。律法を守れば神様 に認めていたける。こういう思いに駆られているなら、自分を愛することが当た り前だと思う人を作り出します。

  警察署の看板「ルールを守る あなたが守られる」。わかりやすい、良い看板 だと思う。とにかく交通事故を無くそうとすれば、ルールを守ろうと呼びかけな けれななりません。皆誰もが、道の歩き方、車の運転の仕方、ルール通りにする。 これが安全な町を作ります。

 さらに、交通事故を起こさないようにするべきなのは、誰のためでしょうか? 警察署の看板「ルールを守る あなたが守られる」これは正しい。しかし、「隣 人を守るためだ」と、どうして書かないのでしょうか。「自分を守る」と言った 方が人の心にはわかりやすいからです。だから、わかりやすい良い看板です。

 コロナ感染症予防のために開店時間の制限をしています。経済的補償は何よ りも必要ですが、不十分。せめて心の問題として、少しでも安らかに耐えるには、 誰かのためになっているからと思うことではないでしょうか。医療従事者の 方々も、隣人のためであるから耐えてくださっています。私たちのできないこと をしてくださっていると痛感します。神様の顧みがありますように祈ります。

  イエスの教え、黄金律「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがた も人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」隣人のことを思い、隣人のた めに何ができるかを思う。隣人の身になる、隣人を優先するようにする。これが、 自分のために律法を守るファリサイ派の義にまさる義。神の喜ばれることです。 これがイエスの生きざま、十字架への道のりでした。

 今日の箇所のすぐ後、5章21節からイエス様は、ご自身の教えを述べられて います。「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は 裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立 てる者はだれでも裁きを受ける。」

 イエスは、まず人々に律法を思い出させます。しかし、ファリサイ派の教える 守り方では不十分なのです。そこで、イエスはご自身の教えを述べています。こ のイエスの教えていることをよく考えてみると、それは自分のことばかり考え ていないで、人の身になること、相手の身になって行動することを教えているの です。腹を立てること、姦淫、離縁、誓いを果たさず嘘を言うこと、復讐するこ と、こういうことをするなと教えられますが、それは、相手が困るからです。周 りを困らせるからです。イエスは、律法を守るなら隣人の身になって行いなさい、 隣人の幸せを願って行いなさいと勧めているのです。これが、ファリサイ派の義 にまさる義です。律法を完成させるのです。

  「義」という漢字のことに触れます。意味の似ている文字の「正」は、客観的 に誰にでも通用する正しさです。「義」について、辞書には「物事の適切な処置、 人としてなすべきこと」、つまり、相手との関りの中で、あるべき姿のこととあ ります。「義」という文字は、美しく舞う姿を表しています。つまり、相手があ ることです。相手の関り、置かれた状況の中で最もふさわしい振舞い方のことで す。神様との関りにおいて、隣人との関りにおいて、私たちがあるべき姿、ふる まいをすることです。それを神様は願っています。隣人を思って生きることです。

   
 愛隣こども園
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