日本キリスト教団

2021.02.14 説教ダイジェスト
礼拝説教要約 「揺れる心」
マタイによる福音書14章22-36節
 ガリラヤ湖の嵐の中で、イエス様は弟子たちの乗る舟の近くまで近づかれま した。弟子のペトロは、イエス様をめがけて水の上を歩みました。しかし、ペト ロはイエス様以外のものが気になりました。強い風、波立つ湖。私はこれで大丈 夫なのかという思いが胸をよぎります。すると、ペトロは沈みそうになりました。 このペトロに、イエス様は「なぜ疑ったのか」と言われました。「疑う」、二つの 道を行くという意味の言葉です。イエス様だけを一心に見つめて真っすぐに歩 んでいく、この心の持ち方、この信仰が必要だったのです。

  私たちも、ペトロのようにイエス様だけを見つめていくことができないので す。私たちの身を脅かすものに気づくなら、私たちはどうしてもそれから目が離 せなくなります。溺れそうになったペトロの姿は私たちの姿であり、私たちの姿 をペトロが表しているのです。人間は完ぺきではありませんから、弱い存在です から、そして乏しい者ですから、この世のいろいろなものが脅かしになります。

  イエス様を信じる信仰と、イエス様を真っすぐに信じられなくなること。身の 安全を確保しようとする思い。この間を揺れているのが私たちです。

  この箇所は、真っすぐにイエスを見つめ、信仰をもっていきましょうと勧めて います。そして、併せて、もう一つのことも言いたいのです。ペトロは沈みそう になりましたが、イエス様は沈むペトロを支えてくださり、船まで連れ戻してく ださいました。沈みそうなペトロを助けるのはイエス様なのだと教えています。

  信仰と不信仰のはざまに揺れるペトロは、信仰を貫くことはできなかった。力 不足だった。しかし、その時こそ、イエス様が助けるのです。私たちの信仰が途 切れてしまう時がありますが、イエス様が助けてくださいます。私たちの救いは、 私たちの力によるのではありません。イエス様が救ってくださいます。

  福音書を読むと、ペトロは何度もイエス様の前に失敗を繰り返してきました。 しかし、その失敗は無駄ではなかった。失敗したからこそ、イエス様が救い主だ ということを学んだのです。  

  ペトロはイエス様の方へと歩み出す前に、「わたしに命令してください」と言 っています。イエス様が「来なさい」と言われるので歩み出しました。つまり、 これは、私たちの信仰生活のことです。私たちの信仰生活は、私たちから一方的 にイエス様に向かって行くというよりも、イエス様の招きを受けて、み力に守ら れて始められ続けられるものです。信仰生活をしつつ、私たちの心は信仰と不信 仰のはざまに揺れるのです。私たちもペトロのように失敗を繰り返し、罪を犯し、 自分の力のなさ、不完全なことを嘆くものですが、しかし、そこからが始まりで す。そこからイエス様を新たな思いで救い主と信じ、イエス様を見つめ直して歩 み出すのです。

  ペトロは失敗をしました。この失敗は何度目でしょうか。失敗が失敗で終わっ てしまうなら、ペトロはイエス様に従おうとは思わなくなるでしょう。けれど、 イエスは失敗してしまった人をこそ、心にかけてくださいます。自分ではどうす ることもできなくなっている時こそ、イエス様はそばにいてくださいます。誰を も諦めないイエス様の愛、どうすることもできなくなった私たちを見捨てない イエス様の愛があります。

  私たちはイエス様の愛で何度も心を強くされて、またイエス様の方へと歩み 出していくのです。また失敗するかもしれませんが、これを繰り返して、イエス 様の愛をいよいよ深く感じていくのです。沈みそうになるペトロは、イエス様に 「助けてください」と叫んでいるではないですか。私たちも、繰り返し何度でも 叫びましょう。心から叫びましょう。「イエス様、助けてください」と。

  イエス様の十字架は、人間である私たちの弱さ、罪深さ、不完全さを現してい ます。しかし、イエス様はよみがえられました。よみがえったイエス様は、どん なときにも、私たちと共にいてくださいます。ここに私たちの新たな出発があり、 救いがあり、恵み豊かな人生の歩みがあるのです。

   
 愛隣こども園
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