日本キリスト教団

2021.02.21 説教ダイジェスト
礼拝説教要約 「荒れ野とは」
マタイによる福音書4章1-11節
 イエスは自ら進んで荒れ野に出かけ、そこで悪魔の誘惑を受けられた。イエ スはすべての誘惑に打ち勝たれ、悪魔は退散した。イエスが誘惑する悪魔に向 かって言われた言葉は、どれも聖書の言葉だった。神を私たちの「主」とし、 神の私たちへの願い(みこころ)を聴き、神を信頼して生きること。これが悪 に打ち勝つ心構えであることを示された。

  悪魔はイエスに繰り返し「神の子なら」と言って誘惑する。悪に打ち勝つの は「神の子」の業であることを証明した。逆に言って、イエスは私たち、弱い 人間を超える信仰と神の力を持つ方だということだ。

 この荒れ野の誘惑は、イエスは「神の子」であり、神の子であるイエスが私 たちを救いへ導く、私たちに平和をもたらす方であるということを告げている。 私たちは、「神の子」であるイエスに聞き従って救われ平和にされると思い、イ エスの後に続こう。

  エジプトで奴隷とされて苦しんだイスラエルの民は、シナイ半島の荒れ野を 40年間さまよった。荒れ野では、人間の身勝手さ、不信仰、弱さを露呈した。 民が食料を求めるので、神はマナとうずらを与えてくださった。これは、人は 空腹を満たす肉体的欲求に弱いことを現した。水を求めるので、岩から水を噴 き出してくださった。これは、神様なら水をくださるだろうと神を試すことに なった。金の子牛を作り崇めまつった。これは、神ならぬものを崇めること、 悪魔にもひれ伏すかもしれないことを表した。

 荒れ野でイエスが受けられた誘惑は、これと同じように、肉体的欲求(空腹) に負けること、高い塔から飛び降りること(神を試すこと)、悪にひれ伏し神を 捨てることを持ち掛けるものであり、イエスはこれをすべて退けた。

  誘惑を受けながら、イエスは神への信頼を貫かれた。神中心であることを示 された。もし、石をパンに変え、高い所から飛び降りて神に助けられるという 奇跡を起こし、全ての富を所有するなら、イエスに対するこの世の人々からの 2 評価はとても高くなったことだろう。しかし、イエスはそのようなやり方を退 けられた。そして、苦しみの道を十字架へと歩まれた。

 十字架にかけられているイエスに、人々は「神の子なら、自分を救え、十字 架から降りて来い」と非難した。しかし、自分を救うやり方は神の思うやり方 ではなかったし、それによっては本当の救いはもたらされない。神の子が十字 架にかかりよみがえってこそ、真の救いはもたらされた。私たちは神の子イエ スを私の救い主として尊び、イエスに聴いていこう。真の救いにあずかろう。

  荒れ野とは、人間が誘惑される場所、神を捨てるように促される所だ。人間 の欲求(弱さ)、欲望、神を忘れて人間中心に生きてしまうこと。こういう誘惑 があるところが荒れ野だ。私たちはこの世という荒れ野に身を置いて誘惑され る、そして、私たちはこの世を人が生きることが難しい荒れ野にしてしまう。 人間の欲求、欲望、神を捨てる不信仰な姿で生きるなら、自分の周りに荒れ野 を作り出してしまう。荒れ野を作り出さないで、平和に生きていけるように、 イエスに聴いていこう。

 福音書の荒れ野の誘惑はフィクション(作り話)だという人がいる。そうだ とすれば、イエスが十字架にかかること、十字架までのこの地上の歩みは荒れ 野であったということを思う。自分中心ではなく神中心、神の前にへりくだる からこそ、イエスは誘惑を受けた。そうでないなら、誘惑されていることすら 知らなかったことだろう。我が身を振り返り、恥じ入る。るのです。

   
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