イエスはペトロを叱った。「神のことを思わず、人のことを思っている」。私た ち人間は、人間同士でも意思の疎通は簡単ではない面があり、神のみ心を知るこ
と、神を思うことは、なおさら難しいことだ。
イエスにとって「神のことを思う」とは、どういうことなのか。それは、イエ スが弟子たちに告げたように、十字架にかけられて三日目に復活するというこ
とだ。このことを、24節以下の言葉がさらに詳しく説明している。この言葉の は、イエスは十字架にかかり、よみがえるということを前提にして読まないとし
っかり意味がつかめない。
自分の命を救おうとする者は命を失い、命を捨てる者は命を得る。つまり、十 字架の死の後によみがえりがあると言っている。目の前のものにこだわってい
ると命を失うが、それを捨てるなら命を得るのだ。十字架の後によみがえりがあ る、この逆説を心に留めてこそ、24節以下のイエスの言葉ははっきりしてくる。
イエスは、ペトロを「神のことを思わず、人のことを思っている」と叱る。ペ トロはまだ十字架とよみがえりを知らないのだ。それで、人のことを思っている。
目の前の物、目に見える者にこだわっている。それでは、よみがえりの命に生か されることはないことになってしまう。イエスはペトロに、十字架の後によみが
えりがある、この神の救いを信じるかと迫っておられる。
私たちは、どうだろうか。十字架の後によみがえりがあると覚えているだろう か。それを忘れて、自分の分かる範囲で物事を考えていないだろうか。それで良
しとしていないだろうか。十字架とよみがえりが、私たち一人一人の身に起こる のだ。私たちは、よみがえりの命に与ることができるのだ。
パウロは「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものは なかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に
遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備 えていてくださいます。」(Ⅰコリント10:13)と言っている。これは、私た
ちの知らない神の計らいがあること、よみがえりがあることを述べている。神は私たちを慈しんでくださり、よみがえりの救いを備えてくださっている。
十字架にかかる前にイエスは弟子たちに言われた。「しばらくすると、世はも うわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、
あなたがたも生きることになる。」(ヨハネ福音書14:19)私たちはよみがえ りの命に与る。諦めず、へこたれずに歩み続ける。
イエスはペトロを叱り、「あなたはわたしの邪魔をする者」と言われる。この 「邪魔をする者」とは、ギリシャ語でスカンダロン。罠や誘惑、妨げになる物の
ことを言う。イエスは、神のことを思わないペトロに対して、私(イエス)が進 もうとしている道に立ち塞がる石だ、道を塞ぐ石だと言われる。私たちが人のこ
とだけを思うなら、ペトロと同様に道を塞ぐ石なのだ。イエスの十字架の道を、 無きが如くに無駄にするだ。
私たちは、イエスの十字架とよみがえりを信じていこう。それを喜びとし、感 謝しよう。イエスの救いに期待しよう。よみがえったイエスは、私たちを苦しみ から導き出す道を備えておられる。世に苦しみがあるが、よみがえりの命がある。 私たちもイエスの道を行くのだ。私たちの前に、道なきところにも道はある。
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