イエスは三人の弟子を伴って山の上に行かれると、イエスの姿が光り輝いた。この世のも のとは思えない光景が現れた。しかし、そこで弟子たちは、いったい何を見、何を聞いてい
たのだろうか。9節以下で、山を下りる時、イエスはご自身の復活について話されているの だが、弟子たちはイエスご自身の言葉を遮り、預言者エリヤについて話題にしている。弟子
たちの関心は、イエスを素通りしてしまっている。
イエスは神の子だから神の栄光の光で輝いているのだと、私たちは知っている。しかし、 弟子たちは、旧約の偉人モーセやエリヤが現れたから、イエスが輝いていると思っているの
ではないか。神の声がして、「これは私の愛する子、これに聞け」と聞こえてきたが、弟子 たちはそれがイエスのことだと思っていなかったのではないだろうか。イエスの姿が変わる
という奇跡が起こっているのに、弟子たちの心は預言者エリヤに向けられているのだ。
13節で、弟子たちは救い主が現れる前に預言者エリヤが現れるとは、洗礼者ヨハネのこ とだと悟ったという。ならば、エリヤの後に現れるというその救い主は誰のことなのか、そ
れがイエスのことだとまで思いを及ぼそうとはしなかったのだ。弟子たちは何を見て、何を 聞いていたのだろうか。
今日の場面を通して、「後から分かるようになる」ということを思う。その時はわからな かったが、時を経て、様々な経験を経て、今わかるようになったということがある。イエス
は、弟子たちのその時を待っておられたのだ。イエスご自身、「後から考え直し」神に従う 人を喜んでおられる(21:29)。広く深い愛でイエスが待っておられる姿が、ここに描
かれている。遅すぎることはない、気が付いた時から始められるのだ。
もし待つことをしないなら、今できないことを赦さず、多くを求め競争を引き起こすだろ う。なぜ待てないのか。今この時、人よりも強くありたいし、上に立ちたいからだ。相手の
事情よりも自分の都合を優先するのだ。
受難節に、イエスが弟子たちを待ってくださり、大きな忍耐をなさり慈しみを示されたこ とを覚えたい。このイエスの姿は、イエスを十字架にかけてしまう罪人、自分中心で無理解 な私たちを救いへと招かれる方だということを表している。あの時はわからなかったが、今 はわかるようになった。だから、ごめんなさい。これが悔い改めだ。
福音書は初代教会の人々が口々に語り伝えた伝承の寄せ集めだ。人々は、弟子たちはわか っていなかったことを言い伝えていたのだ。そして、十字架と復活を目撃して、弟子たちは
大盛に大胆に語り始めたと言い伝えている。
あの震災のことを風化させまいと語る人たちがいる。弟子たちは、イエスの語り部だ。イ エスと共にいて見たこと聞いたことをありのままに語るのだ。私たちはあの時はわかってい なかった、しかし、今はわかると、自分たちの不出来だったことを悔いつつ、イエスに対す る感謝をもって、弟子たちはイエスについて、イエスの愛について、大いに語る人になった。
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