今日は棕梠の主日。受難週の初めの日。主イエスの十字架を覚えましょう。
主イエスはローマ兵に捕らえられ裁判にかけられ有罪になった。エルサレム の町の外のゴルゴタという丘で十字架にかけられた。イエスの左右には二人の
強盗が十字架にかけられていた。イエスは罪人の一人に数えられた。
十字架の前を通りかかる人々が、十字架にかけられているイエスをののしる。 「神殿を打ち倒し、三日で建て直す者」となじる。イエスは、宮清めの場面(ヨ
ハネ福音書2:19)で、このように言われていた。この言葉は、イエスが十字 架にかかりよみがえることによって、神殿でなくてもどこでも礼拝ができるよ
うになることを予告していた。イエスの贖いはもはや犠牲や神殿を必要としな くさせた。当時、年に一度神殿に犠牲を捧げ神殿税(献金)をしなければならず、
祭司や商売人、両替商が私腹を肥やしていた。貧しい人たちが負担に苦しみ、神 から遠ざけられていることを思わせられるの場所が神殿だった。イエスはこの
苦しみから人々を解放しようとなさったのだ。イエスをののしる言葉は、イエス が慈しみの人、救い主だということを明らかにしている。
祭司長、律法学者、長老がイエスをののしった。「他人は救ったのに」と。イ エスは自分を救わなかったが、隣人を救った。イエスは病気で苦しむ人の病気を
治し、嫌われ者の友となられた。罪を犯さないと生きる術がない人々に神の愛を 告げた。イエスは、人々を絶望から救った人だ。ののしりの言葉は、イエスが救
い主であることを明らかにしている。
さらに、「イスラエルの王」とののしられた。これはユダヤ人の言いがかりだ が、ローマの支配の転覆を企む扇動家とみなされた。しかし、イエスは本当のイ
スラエルの王だった。神の民に、この世界に真の平和をもたらす人だ。イエスを ののしる言葉は、イエスが人々への慈しみを抱いて十字架にかかったことを証
ししている。
イエスは、「自分を救ってみろ」というののしりの言葉の通りに、自分を救お うとされなかった。「今すぐ十字架からおりてこい、そうすれば信じてやろう」というののしりの言葉の通りに、人々から疑われ憎まれ、信じてもらえなくても
救い主としてなすべきことを引き受けられた。
それは、ただ一つ、「神に頼っているが」というののしりの言葉の通りに、イ エスはただひたすら神を信頼していたからだ。弟子たちに見捨てられ、人々から
疑われても、「神と共に十字架にかかった」のだ。
十字架にかかるイエスの姿は、一心に神を信頼する人の姿だ。それは、肉の目 に悲惨に映るが、しかし神の目には何より尊い姿だった。人々への慈しみに満ち
た姿だった。
神の導きを信じ、よみがえりを信じ、苦しみを苦しみ抜かれた。神のため、人々 のために役立てることを喜んでおられただろう。ヨハネ福音書は、息を引き取る
イエスが「成し遂げられた」と言ったという。神のみ手にすべてを託された。
「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨て になるのですか)。イエスは、この世で何も望みのない人、見捨てられた人の一
人になられた。ただ一方的に苦しめられ、自分自身も失うほどにされた人、すべ ての人のために十字架にかかった。
そして、このイエスに、神の計らいがあった。イエスはよみがえらせられた。神がイエスをよみがえらせた。
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