日本キリスト教団

2021.04.25 説教ダイジェスト
礼拝説教要約 「死を越えて」
ヨハネによる福音書11章17-27節
 イエスは、マルタとマリアのもとを訪れました。兄弟ラザロが葬られてから四 日後でした。マルタは、イエスがもっと早く来てくれなかったことが不満でした。 「主よもしあなたがここにいて下さったなら、わたしの兄弟は死ななかったで しょう」と言っています。イエスが、「あなたの兄弟はよみがえるであろう」と 告げると、マルタは「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」 と答えました。

  「終わりの日」とは、この世界に神のみ心が完成する日のことです。ユダヤの 人々は、その日には、神様に認められた人はよみがえると信じていました。けれ ども、それはいつなのか誰にも分からない「遠い」将来のことです。 マルタもマリヤも、ラザロが死んだこと、過去のことに執着しています。もは や失われてしまった過去の時に執着し続けています。そういうマルタに対して イエスは、目を未来の方に向けさせるために、「ラザロはよみがえるであろう」 と言われるのです。

  するとマルタは、今度は遥か遠い未来の終末の日まで目を転じてしまい、「そ れは終わりの日のこと」でしょうと答えるのです。過去は失われてしまったので 仕方がない。けれども未来がある。未来に望みをかけよう。やがてその日になれ ばもう一度愛する者を取り戻すことができると考えているようです。

  私達一人一人、それぞれできることなら書き変えたいという過去を持ってい るものです。あの時あのようにしておけばよかった、こうしておけばよかったと こぼすのです。しかし、そのような過去の時は過ぎ去ってしまっているのです。 そうかと思うと、今度は逆に未来にばかり目を向けて、もしあのようになれば自 分はこうするのにと思うのです。しかし、そのために何かしているかというと、 心もとないということもあります。

 もちろん、現在というものは過去と繋がっていますし、過去を知ることは現在 を理解し、現在をより良く生きていくために必要なことです。他方、未来という ものを予測しながら今の時を整えるということ、そのことがなければ今の生活 を形成することはできなくなります。しかし過去とか未来に関心を示すのは、今 のこの時をどう生きるか、どうすればよく生きられるかということを思うから2 です。一番肝心なことは、過去でもなく未来でもなく、現在の時、今この時です。 けれど、マルタもマリヤも、兄弟ラザロの死に直面して、思いが過去の思い出と 未来への期待とに引き裂かれてしまい、現在の時を失っています。

  このマルタとマリヤに向かって、そして私たちに向かって、イエスは「わたし である。わたしがいるではないか。わたしがよみがえりであり、命である。あな たはこれを信じるか」と呼びかけています。私の言葉を聞いて信じて、そして今 を生きよと招いて下さっています。今、イエスを信じるなら、イエスの招きに応 えるならば、私達はもはや死ぬことのない命、たとい死んでも生きるというあの 命に与からせていただけるのです。

 最近は「終活」という言葉があります。遺された人たちが困らないようにとい う心遣いには、頭が下がります。これからやってくる自分の死を覚えることは、 信仰にとっても意味の大きいこと、大切なことです。そして、そのことと同じく らい、いやそれ以上に大切なことがあります。それは、今、イエスをよみがえり の主として信じるということです。

 不思議なことを言うようですが、今、私たちがイエスがよみがえりであり命で あることを信じるならば、死を越えて永遠の命に与ることができるのです。「今、 信じる」ことが、「死を越える」ことになるのです。 イエスは今日、あなたはこのことを信じますかと、私達一人ひとりに問いかけ ています。救いに招いておられます。イエスを信じていきましょう。今この時、 イエスを信じて、死を越えて、永遠の命に与りましょう。

   
 愛隣こども園
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