イエスが十字架にかかる日が間近に迫り、イエスは弟子達に「もうすぐいなくなる」と告 げ、心騒がせるなと言われた。弟子達は戸惑うが、イエスは父のもとに行くのであり、その
「道」をあなたがたは既に知っていると言う。イエスは神のみ心を示しており、イエスを神 のみもとへの「道」とするように勧める。「わたしは道であり、真理であり、命である。」(6
節)。どこかに実際の道があるのではない。イエスを救い主と信じることが、父なる神のみ もとへ連れて行くのだ。イエスを信じることが、神のみもととつながっている、そういう意
味で「道」なのだ。そして、神のみもとに、私たちが永遠に安らぐ住まいがある。
旧約の人々は、「巡礼」をした。エルサレムにある神殿を目指して旅をした。神のおられ るところを目指して道を歩んだ。詩編の中には、巡礼する人の歌、巡礼の喜びを歌う歌があ
る。詩編84編は、神殿を慕う思いを歌い、そして、巡礼の道中の恵みを歌う。「7 嘆きの谷 を通るときも、そこを泉とするでしょう。雨も降り、祝福で覆ってくれるでしょう。8
彼ら はいよいよ力を増して進み/ついに、シオンで神にまみえるでしょう。」どんな苦しみも、 神の恵み、良き計らいを知るためなのだ。雨は、冷静な目で見れば、邪魔なものではなく祝
福なのだ。そして、「あなたの庭で過ごす一日は千日にまさる恵みです。」(11節)と、神 のもとに到着する日、救いの日を望み見て、既にその道中にあって喜びに溢れている。
私たちプロテスタントは、巡礼をしない。しかし、禁じてはいないので、してもいい。し かし、そんな特別なことをしなくても、私たちの日常生活の日々が、神と共にある巡礼であ
るという気持ちは忘れたくない。私たちは、イエスを救い主と信じ、イエスを神のみもとへ の道とし、救いが約束されている。こういう私たちが日々をどう歩むのか、神のみもとへ辿
り着く日に、どんな思いを携え、どんな姿で神の前に立つのかということだ。
以前、死を待つホスピス病棟の患者に、洗礼(病床洗礼)を授けた。すると、教会に来て いた求道者に質問された。死を目前に洗礼を受ける人がいるが、ならば洗礼を受けて何十年
も信仰生活をすることの意味は何かと。私は、それは、神のみ心を知るため、身をもって神 のみ栄を現すためだ。神を愛し人を愛するのであり、神のため、人のため、自分のためだと
答えた。これが、私たちの神への道だ。イエスを主とし、神のみ心を旨とする「信仰道」だ。
「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来 る。・・・・わたしが生きて いるので、あなたがたも生きることになる」(18-19節)
と、イエスは言われる。私たちが歩む日々に、イエスが共におられる。私たちの「神への道」 は、イエスが共におられる道だ。一生懸命に歩んでいこう。
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