イエスは、祈るのにふさわしい心の持ち方、祈る言葉を教えてくださった。主イエスが教 えてくださった祈りは、「主の祈り」と呼ばれている。
ユダヤ教では、施し、祈り、断食は特に勧められている善行だった。イエスは、祈ること に特に目を向けている。つまり、祈りは、私たちの心の持ち方の最たることだからだ。虚栄、
偽善を戒めている。神ではなく人を相手にし、人に褒められようとするのではなく、神を相 手にし、神と私の間だけのことにすべきなのだ。神への純粋な心で祈りたい。
イエスは、祈りにふさわしい心の持ち方とは、「くどくど」祈ったり、「言葉数が多い」こ とよりも、簡潔に心を込めて祈るように勧めている。神は祈る前から私たちが何を必要かご
存じだから、私たちはくどくどと祈らなくてもよいのだ。あれもこれもと心なく祈るよりも、 一つのことを心を込めて念じるほうが良い。
今日は、創立記念礼拝。メソジストの教会として始まったので、メソジストの祖ジョン・ ウェスレーの『新約聖書註解』を引用する。このマタイ6章には、「祈る時は、いつも本気
で祈るように、心の底から思っていることを言うように」とある。くどくど祈る、心のない 神への祈りが、宗教を貶めてきたとも言っている。
では、何を祈るのか。マタイ6章と同じく、主の祈りに触れているルカ福音書11章の註 解で、ウェスレーは「キリスト者とは、神の国の到来によって神が栄光を受け、人々が幸福 になることを第一の、最も熱烈な願いとする人を言うのではないか」「日毎のパンの他に、 何もこの世に求めず、天から下ったパン(イエスの救い)を慕う者ではないか」「自分には 罪の赦しを、他の人の罪を赦すようにし、聖化(キリストの心を我が心とする人になること) だけを願うものではないか」とある。このように主の祈りを解説するのだが、決して難解な 言葉はなく、まさにここにメソジストの精神(要点)が散りばめられている。
ウェスレーにとっては、祈りがクリスチャンを作り出すのだ。神の前で一人、一心に祈る 人がクリスチャンである。神に祈り求める人が、クリスチャンである。逆に言うと、放って
おいても神に祈ろうとする人がクリスチャンである。祈れば神が何かしてくださると信じて いるのだ。そして、いつも隣人へ愛の眼差しを向けて、「わたしたち」の必要とするものは
何なのかということに、日毎にいつも心を配っているから祈るのだ。
メソジストは、「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなの だ。」と言われて、それなら祈らなくてもよいとは決して思わない。それに続く、「だから、
こう祈りなさい。」というイエスの招きに応えるのだ。それは、他でもない「私(自分)が 信じている」のだから。「私が神に愛されている、だから私が」神に感謝する。「私が信じて
いる、だから私が」祈る。「私が愛されている、だから私が」隣人を愛するのだ。こうやっ て、キリストの心を身に着けていくのだ。
私たちは、ずっと主の祈りを祈り続けてきた。これからも、主の祈りを祈りつつ、主イエ スと共に歩んでいこう。
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