日本キリスト教団

2021.06.20 説教ダイジェスト
礼拝説教要約 「信仰の豊かさ」
コリントの信徒への手紙Ⅱ 8章1-9節
 パウロは、コリントの教会の信徒たちに「慈善の業」に協力するよう勧めてい ます。この「慈善の業」というのは、エルサレム教会のための募金のことです。

 パウロは、異邦人もキリストを信じて救わるとエルサレムの教会の人たちに 訴えました。そのことが認められ、パウロは異邦人に伝道する役目を担うように なりました。パウロは、「異邦人の教会」がエルサレムの「ユダヤ人の教会」と 関わりを持つように気遣いました。そこで、エルサレムの教会を助けるために、 異邦人の教会で献金(募金)を集めてエルサレムに届けることを始めました。困 窮を助け、一つキリストの教会であるという交わりを現そうとしました。これが、 「慈善の業」です。私達が献げている献金と重なる面もありますが、当たらずと 雖も遠からず、広く人を助けるために募金をすること、捧げることです。

 1節で、パウロは、マケドニアの諸教会が「神の恵みを受けた」ことを報告す ると言います。募金をしたら、お財布の中身は減っていきます。乏しくなります。 貧しくなります。けれど、パウロは、募金(献金)をして、それで「神の恵み」 を受けるのだ、神の恵みを戴いて豊かになるのだというのです。

  心が豊かな人とは、どんな人でしょうか。心の豊かな人は、自分のことを不幸 だとは思っていないでしょう。いじけたり、自分を見下して心が歪んでいること はないでしょう。寛い心で人の幸せを願っているでしょう。

 さらに、私達の心というものは、不思議なものです。泣きたいくらい不幸だと 思える状況の中でも、自分を不幸だと誰もが思うわけではありません。神様が愛 してくれていると思うと、自分を諦めてはいけないと思えてきます。自分が不幸 か幸せか、それは一人ひとりの心の持ち方によります。不幸か幸せか、それは一 人ひとりが自分で決めるのです。

 私達は、マイナスの状態になっても、どうしてマイナスになったかを知ってい るなら、その意味を理解しているなら、むしろ喜んだり、心満たされたり、生き ていて良かったと思います。「仕事をして何が嬉しいですか」と問われた人が、 「人からありがとうと言われること、感謝されること、人の役に立つこと」と答 えています。人に何かしてあげて、自分はマイナスになっているのに、それが嬉 しいと人は言うのです。人を思い、人を愛することの喜びを私達は知っています。

 使徒言行録20章は、パウロとエペソ教会の長老たちとの永遠の別れの場面 です。パウロは自分の伝道者としての生涯を振り返り、この一言にまとめます。 「主イエス御自身が『受けるよりは与える方が幸いである』と言われた言葉を思 い出すようにと、わたしはいつも身をもって示してきました。」誰かを愛し、捧 げる歩み。神様を愛し、献げる歩み。それは、何にも勝る幸せな歩みです。捧げ れば、何かの報いがあるというのではありません。捧げるということをしたこと、 そのことだけで、その人の心の中に嬉しい気持ちがいっぱいに広がるのです。マ イナスになった理由を知っていて、それを良いことになったと喜ぶのです。人を 思い、神の御心にかない、神様の祝福、恵みを受けているのです。募金とか、誰 かに何かを差し出すこと与えるとは、大切なものを差し出し渡すことです。目に 見えるものが減っていくことです。しかし、パウロは恵みを受けること、豊かに なるのだというのです。

 9節「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、 主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」献金や募金 の話として読んでみます。主イエスは神の御子だから豊かでした。しかし、私達 を救うためにへりくだり十字架にかかるということをされ、貧しくなられまし た。イエス様が貧しくなられたお陰で私達は救われました。私達は、救いという 恵みを受けて、豊かになりました。そして、私達は救われること、愛されること の喜びを知るようになったので、私達はイエス様のように、神と人に与えるとい うことが喜びであり、幸いなことだと知りました。だから、捧げるごとに、私達 は恵みを受けています。豊かにされています。

  2節「極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさとなった」とは? 自分と同じような状況にある人たちのことを同情したのです。この人たちは、何 があっても神の愛があるのだと心は定まっています。マイナスも厭わないし、人 の幸せを願い、与える気持ちを抱くようになったのです。パウロは、この人たち は、神様の前に豊かな人、神の恵みを受けている人だと言うのです
   
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