イエスは、求めることを勧めています。「誰でも求める者は受け、探す者は見 つけ、門を叩く者には開かれる。」人は誰でも罪人ですが、自分の子どもに応え
ようとします。ましてや、神様は私たちの求めに応えてくださいます。
10節「魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。」ここの魚というのは、蛇 のように長細い魚、ウナギのことではないかと言われています。ユダヤ人は、鱗
のない魚は食べることを禁じられています。ウナギもだめ。もし、ウナギを欲し がる子がいるのなら、与えない方が良いです。まして蛇は危ないです。
神様は、私たちの求めに応じて、私たちにとって良いことをしようとなさって いる。しかし、自分に害を及ぼすような物を求めているならば、与えないのです。
私たち人間が何かを求めるということは、程度の差こそあれ、自分中心、自分本 位になりがちではないでしょうか。私たちが求めるものによっては、祈りが聞か
れないことも、神様の慈しみ深い計らいかもしれません。
数日前に、千葉県で小学生がトラックにひかれて死んでしまうという痛まし い事故がありました。私の率直な願いは、死んだ子どもが生き返ることです。で
も、常識的にはそれはありえないです。できないとわかっているなら、祈っては ならないのでしょうか。人を愛する心から出る祈りです。しかし、自分本位と言
われてしまうかもしれません。欲深い御利益を求める祈りとは違うように思い ます。それとも、私たちの愛とは自分本位なものなのでしょうか。
イエス様はゲッセマネの園で、十字架の死を前にして必死の祈りをされまし た。イエスを取り巻く状況を思えば、この祈りはかなえられないと思えます。け
れど、イエスの身になれば,このような祈りがイエスの本心です。この祈りは、 祈りの模範と言われていきました。「しかし、わたしの願いどおりではなく、御
心のままに」と祈るからです。神様のみこころ、神様の判断を仰ぐのです。人間 は自分本位なものだから、何を祈っても良いとしても、祈ったことを神様に託す
のかどうか。祈るとは何をすることなのか、イエス様の祈りから、教えられます。
私たち人間の自分本位な思いは、暴走します。際限が無い。だから、イエス様 は黄金律(「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさ
い。」)を示されます。自己中心な祈りをすることを情けなく思うのなら、隣人を 自分のように愛しましょう。 1/1
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