イエスは、ファリサイ派の人々に快く受け入れられず、憎まれ、悪霊の頭だと みなされた。そこでイエスはある譬えを話されて、イエスを受け入れない当時の
ユダヤの有様を批判された。
ある家から悪霊が追い出されたが、落ち着く所がなく舞い戻ってきた。すると、 前よりもきれいにされていたが住む人はいないので、仲間の悪霊を連れてきた。
それで、追い出される前よりも多くの悪霊が住み着くようになり、前よりも状況 はさらに悪くなったという譬えを語られた。
これは、ユダヤの民の歴史と重なる。ユダヤは、アッシリア、バビロニアに国 を滅ぼされ、捕囚の民となった。これが、譬えで言う、神に背く悪霊が家の中に
住んでいる状態のこと。そして、バビロンから帰還した民がエズラ・ネヘミヤの 改革を経て、ユダヤのアイデンティティーである律法を厳格に守ることを誓い
ユダヤ教団が始まった。これが、家がきれいにされている状態のこと。そして、 律法を守ろうとする余りに傲慢な思いを抱くようになったり、いつも自分は正
しいとする頑なな思いを抱くようになったことを、仲間の悪霊を連れてきて前 よりも悪くなったというのだ。つまり、イエスはこの譬えをもって、律法の本来
の精神をないがしろにしている律法主義者の誤りを批判している。それは、神が 遣わした救い主を受け入れないユダヤの人々の誤りを指摘することでもあった。
問題は、家がきれいになってから、家が空っぽだったこと。誰も住む者はいな かったことだ。律法を守る民の心の中から、神様を信頼する思いが消えてなくな
っていたのだ。
この譬えを聴く私たちは、どうすべきか。それぞれの心に神様をお迎えしよう。 それぞれの信じる心を振り返り確認しよう。そして、家(心)がきれいなままで
あり続けられるように心がけよう。つまり、御言葉に聴くこと、自分の振る舞い が神の御心にかなっているか落ち着いて振り返ってみよう。
中世の教会は、神をないがしろにして金銭が動き、権力の奪い合いをして、堕 落していた。教会はきれいだが、空っぽではなかったか。指導者たちの心の中に、
2 神様はいたのだろうか。宗教改革が起こり、教会の堕落を指摘しきれいにした。 宗教改革を経た私たちの教会は、今もきれいなのかと自らを問わねばならない。
そして、この世のことを思いつつ、何度もきれいにしたのに、改革したのに、 その度ごとに前よりも悪くなっているということならば、肩の力が抜ける思い
がする。しかし、それが人の世なのかもしれない。そこで、いつまでも変わらな いもの、本当に確かなものはないのか、きれいであり続けるものはないのだろう
かと思わされる。神様は変わることがない。ここに立ちたい。
今、日本と米国では、RS ウイルスが乳幼児に流行している。例年よりも流行 する季節が早いという。コロナ感染症対策でウイルスに対する免疫がなくなっ
たことが原因だとされている。衛生上きれいになったのに、他のウイルスが流行 っているということだ。
これからコロナウイルスが追い出されてから後、ポストコロナになって、今よ りも世界は良い状態になっていることを望む。前よりも悪くなるという悪い予
測はしたくないが、予測できないような少し不安な気がする。しかし、いつも確 かなのは神様だということを信じていきたい。
教育実習でお世話になった関西学院中等部に入学する一年生が、毎年キャン プ場で合宿をする。キャンプ場を去る時、生徒たちは使用したキャビンの掃除を
する。布団をたたむ。ぞうきんをかける。「来た時よりもきれいになるようにし なさい」という指導を受ける。後から来る人のことを気遣う、隣人を愛するキリ
スト教精神の一環だ。そうじの話ならいざ知らず、これを人生の歩み方として広 く受け止めれば、大変なことでもある。力の乏しさを思い、神様と一緒にきれい
にするのだ。
コロナの中で、この社会の様々な側面が浮き彫りになった。コロナという世界 的な未曾有の経験の後、このことを良い経験として、前よりもきれいな社会、配 慮された生きやすい社会であるように願う。
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