18節「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、 取るに足りないとわたしは思います。」パウロは、今この世にあって様々な重荷
を背負い、苦しんでいるけれども、将来現される神様の救いがあると信じている、 そのことを心の拠り所とし、希望をもって苦しんでいると言います。
そして、パウロは広く世界へと目を向けています。「被造物は、神の子たちの 現れるのを切に待ち望んでいます。」被造物とは、この世界にある神様以外のす
べてのものです。数週間前に、アメリカの大企業の経営者たちが、宇宙ロケット を作り宇宙空間で何時間かを過ごしてきたというニュースがありました。宇宙
は、真っ暗な空間にたくさんの星が輝いている。美しい銀河系、芸術作品のよう な色とりどりの星雲たち。あまりの美しさに見とれます、どんな素晴らしい場所
なんだろうか、胸躍ります。しかし、宇宙がどんな素晴らしい場所であっても、 私たち人間が変わらなければただ場所が変わっただけ、今住んでいる世界と同
じように、そこも人生の重荷を背負い苦しむ場所になるでしょう。
私たち人間が罪を犯さないものになり、自分中心であることをやめない限り、 私たちがすっかり神様に従っている救われている「神の子」(19節)にならな
い限り、どんな素晴らしい宇宙も私たちの苦しみの場所です。20節では、被造 物は虚無に服していると言いますが、私たち人間の罪のせいで、この世界のすべ
てのものが虚無に服しているのです。終末の救いの時、私たち人間も被造物も、 共に救いにあずかるのです。その日を待っているのです。
22節で被造物は「共にうめき、産みの苦しみを味わっている」といいます。 自然災害、環境破壊、公害、放射能汚染。これは自然がうめいているのです。戦
争をすれば、青く美しい海に重油が流れ出し、海の鳥たちが油にまみれて真っ黒 な姿になるのです。
私たちは、終末の救いの日が来ると信じています。25節「目に見えないもの を望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。」と言われています。ヘブライ人
への手紙11章1節では、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実 2 を確認することです。」とあります。さらに、「昔の人たちは、この信仰のゆえに
神に認められました。」と言って、旧約聖書のアブラハム、イサク、ヤコブから 初め、モーセや信仰の先達のこの世の歩みが神の御許、天の都を目指す歩みだっ
たことを振り返っています。
日本では、先週はお盆でした。私たちも先に神のもとに行った人たちのことを 思い出します。この世では、それぞれにたくさん重荷を背負ったことと思います
が、神の御許に一切を吹き飛ばすような平和や安心があると信じます。お一人お 一人の平安を祈ります。
私たちも信仰の先輩たちの歩み、その姿を思い起こしつつ、「現在の苦しみは、 将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは
思います。」という言葉を励みとしていきましょう。
パウロは、私たちの救いは、「体の贖われること」(23節)、肉体の救いだと いいます。長い年月、病気に苦しめられたり、闘病の生活をなさる方がおられま
す。苦しいだけなのでしょうか。そうではないのです。肉体によって苦しんでき たことが、意味あることに変えられるのです。報いはあるのです。
世界中がコロナで苦しめられています。世界中の人がうめいています。被造物 はうめいています。神様になんとかしてくださいと叫んでいます。コロナの終息
する日を待っています。ずっと待たされているのです。世界中の人が忍耐してい ます。この世界にとって何が希望なのか。苦しみを耐え抜く力は何なのか。改め
て意識されているのではないかと思います。
一人一人の心の持ち方が問われています。何が希望なのか。私自身も問われて います。「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、
取るに足りない」このことを本気で信じるのかどうか。
そして、続く26節「同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。 わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自 2aQ らが、言葉に表せな い「うめき」をもって執り成してくださるからです。」このことも私たちに与え られている希望です
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