パウロはコリントの教会からの質問を受け、返事の手紙を書いた。8節「主も最 後まであなたがたをしっかり支えて、わたしたちの主イエス・キリストの日に、非
のうちどころのない者にしてくださいます。」と励ましの言葉で書き始める。
そして、10節「皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを 一つにして、固く結び合いなさい。」と勧める。それは、教会内に分派ができて争
っていたからだ。パウロ、アポロ、ケファ(ペトロ)、キリストをそれぞれ頭とす る分派があった。教会はキリストの体であり、キリストだけを教会の頭と仰ぐパウ
ロには、キリストご自身が幾つにも分けられてしまったかのように思えた。
そして、「キリストにつく」という人々は、キリストにつくことは正しいとして も、そのことをもって他者を見下し優越感を抱くなら、本当にキリストをわかって
いないとも指摘している。キリストを頭とし、キリストの心がわかっているなら、 分派はないはずだ。教会の頭、信仰者が主人とすべき方は誰なのか、キリストによ
って心を一つにできること、平和があることを確認している。
私たちはこの世で煩い、悩みがある。生きる不安がある。苦しみ悲しみの中に、 人生の足取りも重たくなる。しかし、私たちのためにへりくだり十字架にかかった
キリストの慈しみを思うなら、救いがあることを思い起こすなら、心に力を与えら れる。キリストは私たちの平和であり、生きる力、希望だ。
宗教改革者ルターは、当時の教会に破門され命を狙われて、ある城の中に隠れて いた。様々な不安や悩みの中に、悪魔の誘惑を受けたという。壁に映った悪魔の黒
い影に向かって「私は洗礼を受けた。消え去れ」と叫んで祈ったという。ルターに とって、洗礼を受けていることは、キリストとつながっていること、御手に守られ
ていると確信を与えるものだった。
また、作家・椎名麟三は、洗礼を受けた喜びの言葉として、キリストがありのま まの自分を受け入れてくれることを喜んで、「ああこれで、じたばたして死ねる」
と言った。不信仰も弱さもすべて委ねることができる安心を与えられたという。
私たちの洗礼は、「父、御子(キリスト)、聖霊によって」授けられる。救い主キ リストの死と復活にこの身を委ねるのだ。救いの平安にあずかることができる。そ
して、洗礼はスタート、だんだんキリストの心がわかっていくよう祈る。 2 平和な人が集まれば、平和な集いができる。
平和な人が集まって、平和でない人 が平和に招かれていく。教会の交わりとは、このような集いではないだろうか。洗 礼を受けた人の集いは平和に招かれている人々の集い、キリストの平和へと招く
人々の交わりだ。キリストが、十字架にかかった方、へりくだった方、そして、自 分のこと、隣人のことを心にかける方なので、この方を頭とする交わりに平和があ
る。この方のもとに、互いに優劣をつけるような分派はないはずだ。
2006年4月 7 日の朝日新聞に「ユダ、イエスを裏切らず」という記事が載 った。2 世紀に書かれた『ユダの福音書』の一部が発見されたという内容。これは、
当時の地中海世界に大きな影響を及ぼした思想「グノーシス」に影響を受けたキリ スト教のグループの文書だ。
古代ギリシャの哲学者たちは観念的な世界に憧れて、肉体から魂が解放される ことを救いとし、「肉体は魂の牢獄」と言った。同じように、「グノーシス」は、目
に見える世界、この世や肉体を軽視する。神のおられる天上の有様を知ること、そ の知識(グノーシス)を得て悟りを得ることが救いだとする。そして、その影響下
のキリスト教のグループは、イエスは天上の知識(グノーシス)をこの世に伝えに 来た人であり、イエスが肉体から解放され天上に帰るためにユダが手伝った(十字
架につけるように計らった)と説く。だから、ユダは裏切ったのではなく、イエス の依頼を受けて魂を肉体から解放した英雄だとする。
まったく奇想天外な作り話だが、パウロが去った後のコリント教会はこのグノ ーシスの影響を受けていたとされる。つまり、救いにイエスの十字架は必要なく、
信仰にとってイエスのようにへりくだることは重要ではないということになる。 だから、コリントの人々は十字架の福音に基づくことなく、指導者の外見ばかりが
気になり、人気投票をして分派が生じるのだ。
パウロは、5 節「あなたがたはキリストに結ばれ、あらゆる言葉、あらゆる知識 (グノーシス)において、すべての点で豊かにされています。」とコリントの人々
の誤りを心得つつ、「十字架の(へりくだる)キリスト」のもとに救いがあり、平 和があると諄々と説いていく。
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