「隣人を自分のように愛しなさい」(8節)ヤコブの手紙2章は、隣人を愛す ることを勧めている。人を分け隔てしないで、どの人も神の大切な存在として平
等に愛するように勧めている。
今日の箇所に至るまでに2章の初めから、教会に立派な身なりの金持ちが来 ると歓迎され特別扱いされている。一方で、貧しい身なりの人が来ると蔑まれ、 粗末に扱われている。この現実を前にして「愛し合いましょう」と訴えている。
今から2千年前のパレスティナ、ギリシャ・ローマの社会は、今日よりも貧富 の差は大きかっただろう。5節では、金持ちが不信仰であり、貧しい人が信仰深
いとされている。このような見方は、勝手な決めつけのようにも思えるが、しか し、この当時のお金持ちが桁違いの「富豪」であり、いつも思うように生きられ
るような立場であり、貧しい人を虐げるのが日常茶飯事だったことを物語って いる。このような貧富の差の激しくあり、差別がまかり通る社会の中で、いやそ
うだからこそ、ヤコブの手紙の著者は「愛し合いましょう」と訴えている。
どうして貧富の差、大きな経済格差が生じるのか、振り返ってみることも大切 だと思う。この世界は、中世まで文盲の人の方が多かった。日本でも、寺子屋が
できるまではそうだった。ほんの一握りのエリートが富を握る社会だった。マラ ラさんではないが、「アフガニスタンの女性に教育を」と強く思わされる。
GAFA(Google,Apple,Facebook,Amazon)という米国の巨大 IT 企業の創業者 たちの資産は10兆円、20兆円とも言われている。その一方で、カリフォルニ アの町中にホームレスがテントを張っている。教会は炊き出しの設備を持ち、毎 日炊き出しに忙しい。
12節「自由をもたらす律法」という言葉に注目する。この手紙で「律法」と は、神から授かった神の願いのことを広く一括りに「律法」と呼んでいる。だか
ら、人を愛することは福音なのだが、それも神に示された神の願いだから「律法」 と呼ばれている。
そして「自由」とは。何でも思い通りにできる自由のことではない。イエス・ 2 キリストが私たちを罪の束縛から解放してくださったこと、十字架に贖いによ
って赦され、神の願う人間本来のあり方ができるようになることをいう。つまり、 神の御心にかなって歩めること、救われているということ。罪や重荷から自由で
あることだ。
そこで、「自由をもたらす律法」とは、人を愛することが律法なのだから、神 の願いだと心得て隣人を愛することが自由をもたらすといっているのだ。隣人 を愛することは、隣人を自由にし、自分自身も自由にされる。また、自分を愛す ることで、自分が自由にされるのだ。貧しい人の重荷も少しは軽くできるかもし れない。
話は変わるが、この世は苦しみばかりでいち早く天国に行って救われるとい うことがあり、その一方で、今ここで、この世で神様の御心にかなって生きると
いうことがある。このどちらも聖書がいう「救い」だ。このヤコブの手紙は、後 者、この世で神の御心にかなって生きる、そういう救いを勧めている。ヤコブの
手紙は「行いのない信仰は死んだものだ」と言うが、それは、今、ここで神の御 心に生きることへ招いているからだ。今、神のみ栄を現わすのだ。
この2章までに印象深い言葉は、1章25節「自由をもたらす完全な律法を一 心に見つめ」る、という言葉だ。つまり、神の愛、キリストの十字架を一心に見
つめ、大きな憐れみ、愛、赦しを自分に向けられたこととして受け止めること、 これを繰り返し、憐れみにかなうものであるように自らを律しつつ、少しずつ愛
する人にされていく。ヤコブの手紙は、このことを呼びかけている。
マタイ福音書18章に、仲間を赦さない家来の譬えがある。膨大な借金を赦さ れ自由にされた人が、微々たる額の借金を赦さなかった。牢屋にぶち込んでしま
った。赦さなくて良かったのか。ましてや、膨大な借金を赦され自由にされてい るのならば。神の前の私たちはどうか、隣人とどのような関わりをしているのか、
ヤコブの手紙の著者は問いかけている。
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