メソジスト派の祖ジョン・ウエスレーは、1738年5月24日ロンドンでなされたモラ ビア兄弟団の集会に行き、「信仰によって救われる」という、今までにない強い確信を得た。
このモラビア兄弟団の創設者はオーストリアのツィンツェンドルフ伯爵。
ツィンツェンドルフ伯爵は、ある美術館でイエスが十字架にかかった絵画を涙をためて 見つめて立ち尽くしていた。その絵画の下には「我は汝のためにかくなせり。汝は我のため
になにをなせしや。」と書かれた札があった。この時から、贅沢な社交家から退き、モラビ ア兄弟団(モラビア地方の宗教改革的信仰を抱く一派)を支援する働きに邁進した。彼のイ
エスの十字架に対する感謝の念は献身へと導き、そのために生涯を献げた。信仰生活は、神 への感謝の念によることを改めて思わされる。
エフェソの信徒への手紙5章は、信仰生活を続けるよう勧めている。キリスト教の神、イ エス・キリストを知らなかった頃の罪深い生活(古い生き方)を離れた今は、神を悲しませ
るような振る舞いをしないで、神の愛に倣い、感謝の念の内に信仰生活を続けよう、新しい 生き方をしようと励ましている。
2節で、キリストは「御自分を香りのよい供え物」として神に献げたと言われている。旧 約聖書の時代には、神殿の礼拝で動物の犠牲を献げた。牛や山羊を殺して血を抜き、その肉
を焼き尽くした。この行為には、命ある生き物を献げるという神への真剣な思いを感じる。 さらには、レビ記1:9「祭司はその全部を祭壇で燃やして煙にする。これが焼き尽くす献
げ物であり、燃やして主にささげる宥めの香りである。」とあるように、犠牲の動物を焼く 匂い(香り)が天に立ち上り、神様がその良い香りによって宥められるという考え方による。
良い香りを喜ばれるとは、神様も人間と同じように感じると思っているようで、戸惑いも感 じるが、こういうことは古代の宗教にはよくあることだ。とにかくイエスは、神様に喜ばれ
る価値ある犠牲となってくださったのだ。「御自分を・・・献げてくださった」と言われて いる。自ら進んで犠牲となるという深い愛を覚えたい。
3節から、人への悪口を言うな、悪い心を抱くなと勧められる。さらに、神の救いに感謝 する思いは、人への悪意と併せ持つことをさせないと言う。感謝の念を抱くことを勧めてい
る。「感謝」ということで、Ⅰテサロニケ5:16「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りな さい。どんなことにも感謝しなさい。」という言葉を思い出す。聖書の中で、祈りと感謝と
は、同時に記されることが多い。ギリシャ語で「感謝」はユーカリスティア。これは、神に 「祈る」ということを含む言葉だ。
聖餐式は「ユーカリスト」「感謝の祭儀」とも呼ばれる。私たちは、聖餐を祝い、イエス の十字架を想い起こし、神に感謝し、救いの喜びを与えられて新たに歩み出す。つまり、感
謝は祈り(想起)によって導かれ、祈りは感謝の表明となる。感謝と祈りは聖霊の働きだ。
今日の5章の言葉に、父、子、聖霊の「三位一体」の信仰を見出す。1節から順に、父な る「神」に倣い、子なる「キリスト」の十字架の愛に導かれ支えられて歩み、そして「聖霊」
によって感謝の思いを与えられる、そういう信仰生活をなすようにと勧めている。神様は、 三位一体というあり方、働き方をされ、私たちの救いのために、すべてをもって精一杯に働
きかけてくださっていることを改めて思わされる。こんなに小さな私たちだが、神様があら ゆる手を尽くして救いへと招き、守り導いてくださっているのだ。心から感謝したい。
灰谷健次郎は元小学校の教師で、小学生を主人公に小説を書いた。ある文章の中で、小学 生が書いた「おれとおまえ」という詩を紹介している。
「お前は友達がようけいて、
お前は人から好かれ、
お前は賢いと言われ、
お前は先生に好かれ、
お前は金持ちと言われ、
俺は意地悪と言われ、
俺は口が悪いと言われ、
俺は先生に嫌われ、
俺は名札もつけず、
俺はだんだん孤独になっていく。
しかし、俺もお前も人間、誰だってお前のように好かれたいんだ。 この気持ちがわかるか。」
まだ幼い小学生が、この世で生きることの難しさを歌う。嫉妬、情けなさ、怒り、息苦し さ、辛さ、悲しさ、悔しさ、素直になれない度しがたさ。この詩には、私たちがこの世で抱 く様々な感情が込められている。私たちに、様々な感情がある。いつも素直ではない。私は 若い時、何事も照れくさくて、ハスに構えて、神にも人にも素直でなかった。
人に対して素直になることは難しいかもしれない。けれど、神様には素直でいたいと思う。 私たちの祈りを、その心を、神様はありのままに聞いてくださっている。このことを信じて
支えられていこう。神の愛への感謝に支えられ励まされていこう
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