今日は神学校日。牧師の養成が十分になされるように祈る日。今日の聖書の箇所は、 12人の弟子たちがいろんな町や村へ、伝道の働きに派遣される場面です。
「旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。」(10節)弟子 たちは、ほとんど何も身につけないで、自分を守る物を持たず、体一つです。今日明 日食べる物があるかどうかも確かでないまま、細々と命をつないでいる。自分自身を 直に神様にさらしています。神に一切を委ねて旅をしています。
ゲルハルト・タイセンという新約学者は、今日の聖書箇所のイエスの弟子たちのこ とを「放浪のラディカリスト」と呼んでいます。放浪することが大きな目的です。一
つでも多くの家を訪れ、一人でも多くの人に出会うためです。
キリスト教の歴史を振り返れば、神の御心からそれていた時に、教会は堕落しない ように改革をしました。今日の箇所のイエスの弟子たちの姿に、キリスト教の原点の
姿を見るような気がします。キリスト教が聖なる神様の名の下にある団体ならば、人 の思いではなく神の御心を告げ広めるためには、俗なる世界のあり方と同じ姿ではあ
り得ないのです。日常にはない、非日常の存在。この聖なる者は、私たちに日常の考 えを本当にそれが当たり前なのかと問い返させます。
「放浪のラディカリスト」とは、当たり前が本当に当たり前なのか問い返す、常識 を問い直すというような意味です。方々の町や村を巡り歩き、そこで出会う人たちに、
当たり前が本当は当たり前ではないことに気づかせて、神様のこと、救いのことを思 うように導くのです。
私たちが今日やっている伝道ということは、ここでいう「ふさわしい人」が誰なの かを探すことだと思いました。放浪する弟子たちが今日宿する家を探します。神の御
心を語ることばに耳を傾ける気持ちがある人がいる。その出会いを大切にしよう、関 わりを持とうと思ってくれる。つまり、伝道は、弟子たちのように、外に出かけてい
くということです。一人でも多くの人に出会い、一つでも多くの町に行く、家を訪れ る。次にどこに行くのか、誰に会うかは誰も知りません。出かけてみなければ、家の
玄関を叩いてみなければ、何かやってみなければ、何がどうなるかは何もわからない。 弟子たちにとっては、万事を尽くして天命を待つだけです。やる気を持って事に当た
り、後は神様のお導き次第です。
また反対に、家々を訪ねる弟子たちのことを思いました。弟子がある人の家のドア 2 を叩いて、家の中の人と出会い、挨拶をして、平和があるようにと話しかける。その
弟子は、どんな顔つきをして、どんなにして微笑みかけるのだろうか。どうやってそ の家の人に安心な思いを与えようとするのだろうかと思いました。万事を尽くして天
命を待つのですが、まさに万事を尽くさねばならないのです。「ふさわしい人」を探す ためには、その人自身が救いへと招くのに「ふさわしい人」でなければならないと思
います。そのように心がける人でなければならないと思います。
マイカル・ジャッジ神父は、ニューヨークのワールド・トレード・センターの近く にある消防署のチャプレンでした。どんな人にも平等に接し、その寛い心、温かい心
は多くの人に向けられ、人々の尊敬を集め、多くの人に親しまれていました。 9月 11日、ワールドトレーディングセンターのテロ事件の際に、消防士達と一緒に、あ
の崩れ落ちるビルに駆けつけ、立ちこめる煙の中で息を引き取ろうとする人を見つけ ては、塗油の儀式をしていました。しかし、倒れてくる柱に押しつぶされて死んでし
まいました。テロの犠牲になった消防士は343人の中で、最初に死亡が認定された のがマイカル神父でした。
今もこのマイカル神父を記念して、事故現場には写真やパネルが展示されています。 神父が生活していた修道院と消防署を結ぶ通りは、名前をマイカル・ジャッジ通りと
名付けられました。日本人の牧師が、その足跡を調査し、本にまとめました。今年の 9月11日の日付で出版されました。「マイカルの祈り」という題です。
マイカル神父は、毎日、決まった言葉の祈りをして1日を始めていました。
「主よ、あなたが行かせたいところに連れて行ってください。 あなたが会わせたい人に会わせて下さい。
あなたが語りたいことを示してください。 私があなたの道を遮ることがありませんように。」
神様に導かれて町や村を巡り歩いた、最初の弟子たちのことを思い出します。神父 や聖職者の大切な心がけを現わしています。そして、すべてのクリスチャンの祈りと
しても素晴らしい祈りだと思います。
私たちがこのような祈りの心でいるなら、神様はどの人をも、イエスの弟子とみて くださるでしょう。伝道のために「ふさわしい人」として用いてくださるでしょう。 弟子たちは、今日はどこに行くのか、明日は誰に会うのか、すべてを神様の導き、 はからいに委ねていくのです。一軒一軒の家を訪ねます。神様の御心を訪ねていくのです。
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