江戸時代の俳人、松尾芭蕉は『奥の細道』の中で、江戸から旅に出て那須の黒 羽で道に迷い、居合わせた人から馬を借りて無事に村里に着くことができたと
記している。人には説明できない道も、馬ならわかる。芭蕉は馬の背に乗って、 難を逃れた。
私達を神様のみもとに導く方がおられる。イエスは言われる。「わたしは道で あり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くこ
とができない。」(6節)
イエスは、神様の慈しみ惠みを伴い、御心に沿って私達と共に歩まれる。私達 の旅路を慰め励まし、罪過ちも赦し、ありのままを慈しんでくださり、喜びも悲
しみもすべてを良きことに変えてくださる。永眠者記念日に、先に召された方々 の人生を神様が導いてくださったことを感謝しよう。
愛する人、同じ屋根の下で共に暮らした人を失うことは、とても辛い。喪失感 は計り知れない。ある医師が、突然前触れもなく召された息子に会いたいと、遺
骨がおかれている部屋に食事も摂らず4日間こもり、その心境を牧師に話した。 「私がこんなに会いたいのですから、息子は生きていると思える。天国で生きて
いる。天国がわかりました」と。愛は死をもってしても、私達から愛する人を離 さない。生きていた時よりも、絆をいよいよ深く堅くする。
1節に言われているように、神様はみもとに私達一人ひとりの住むところを 用意してくださっている。神のみもとへ行くと、そこに安住の場所がある。イエ
ス様が、私達を愛し贖い、神様のみもとに行く者、ふさわしい者となしてくださ り、私達を神のみもとへ導いてくださる。
日本のキリスト教の礎を築いた明治の牧師の一人、植村正久牧師が、英文の雑 誌に見出した詩を愛好し翻訳した。「天に一人を増しぬ」と題をつけた。愛する
家族がいなくなったことを、日常生活の場での喪失と嘆く。愛する人のなつかし い顔を、いつも座っていたところに見ることができなくなって、とても悲しいと
嘆く。が、しかし、それは逆に、天に一人を増したということだ、イエスの贖い によって私もそこに行くのだ。愛する人がいるその場所だからこそ、それは確か
なのだ、「吾らの霊魂を天の故郷にひきかかぐるくさりの環、さらに一つの環を 加へられしなり」と確信する。
私達の愛する人が、神のみもとに生きている。神様が場所を用意してくださっ ている。イエスが、そこへ導いてくださる。私達もこれから神のみもとへ、神の
住まいへと行く。神のみもとの家庭の一人、家族になる。これを慰めとし、希望 をもっていきたい。
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