日本キリスト教団

2021.11.14 説教ダイジェスト
礼拝説教要約
「神のかたち」
創世記1章26―31節、
ヨハネ福音書14章6-11節
 神様は天地創造の6日目に、私たち人間をお造りになった。今日読まれた創世 記の言葉では、「神のかたち」にかたどって人間をお造りになったとある。「神の かたち」とは、いったいどういうことなのだろうか。

  27節「かたどって」とは、ヘブライ語のツェレム。本物そっくりの肖像のこ と。次の「かたどって」は、デムート。似ている、合わさる、対応しているとい う意味。右手と左手が合わさる、対応しているということ。

  古代エジプトでは、王様は「神のかたち」だとみなされた。これは、王様は神 の代わりの役目をするという意味。だから、人間が「神のかたち」だということ は、この世界で神の代わりの役割をする存在ということ。神を尊び、神の考えを よく知っているので、神に従う存在であり、神の御心をこの世界に現わすのだ。

  24節では、神は人間に家畜や獣を「支配させよう」と言われた。「支配」と いう言葉は、上の方から押さえつけるイメージがあるが、ここでは神様が尊ばれ るべきだという意味合いで使われている。人間は神様に代わって支配するのだ が、それは、「神の」代わりなのだから、神の御心を現わすように関わるという 意味だ。人間が自己中心な思いになり、身勝手をすることを言うのではない。神 の御心とは、お造りになった命あるものを慈しむことだ。人間はこの世の生き物、 家畜を慈しみ、骨を折って世話をするのだ。

  自然保護を訴える人々が、キリスト教は人間が動物、自然を支配することを許 しているので、自然を破壊することを助長していると見なす。しかし、それはキ リスト教の歴史における誤りである。聖書の言葉の読み誤りだ。神の御心、命へ の慈しみこそ、人間のなすべきことだ。自然を壊さないで、きれいな空気と水を 守らねばならないのだ。

 イエスは、ヨハネ福音書14章7節で「あなたがたがわたしを知っているなら、 わたしの父をも知ることになる。」と言われ、11節「わたしが父の内におり、 父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。」と言われる。
 
  イエスこそ、100%「神のかたち」なのだ。神と一体であり、誰よりも神を 尊び、神を知り、100%神に従い、神のみ栄を現わす人だ。神の御心の通りに、 すべての命を慈しみ、人々のためにへりくだり、十字架にかかったのだ。そして、 私達がイエスに倣うなら、私達も「神のかたち」を取り戻すことができるのだ。 私達は神を忘れ、自分中心に生きるなら、「神のかたち」ではなく、神の代わり はできない。イエスに倣うことで、「神のかたち」を取り戻すことができる。

 今日の創世記1章27節には、「創造した」という言葉が、繰り返し3回使わ れている。これは、人間を創造することこそ、神の天地創造の最大の目的だった ことを言い表している。

  詩編8編では、神様に向かって讃美の声を上げている。「(誰よりも神は尊い 方。)そのあなたが御心に留めてくださるとは/人間は何ものなのでしょう。人 の子は何ものなのでしょう/あなたが顧みてくださるとは。6 神に僅かに劣る ものとして人を造り/なお、栄光と威光を冠としていただかせ 7 御手によって 造られたものをすべて治めるように/その足もとに置かれました。8 羊も牛も、 野の獣も 9 空の鳥、海の魚、海路を渡るものも。10 主よ、わたしたちの主よ/ あなたの御名は、いかに力強く/全地に満ちていることでしょう。」

 今日の創世記の言葉を読んで、改めて「この私が人間であるとは、どういう意 味があるのか」「私は神のかたちなのだ」ということを思わされた。普段考えな いことだが、このことを振り返ってみるように促していると思う。

  この創世記1章が書かれた時代は、ユダヤの人々がバビロン帝国で捕囚の民 としての不遇な生活を余儀なくされていた。生きることに絶望する時、「私は神 のかたちに造られたのだ」と信じ、自尊心を強く保ち、何事にもへこたれずにい きることに心定めたのだ。

  そして、私達には、100%「神のかたち」であるイエスが共にいる。私達の 弱さや自己中心な罪がこの世界を罪の闇とし、私達が「神のかたち」であること を邪魔するのだが、しかし、イエスは、私達がイエスに倣い続ける力、神の愛を、 指し示し続けてくださる。すべての人に「生きよ」と呼びかける神の声を聞く。


   
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