日本キリスト教団

2021.11.21 説教ダイジェスト
礼拝説教要約
「休む神」
創世記2章1-3節
マルコによる福音書2章23-28
 神は天地を創造された。2章1-3節は、その7日目のこと。神は7日目に御 自分の仕事を完成された。御自分の仕事を離れ安息なさった。そして、7日目を 聖別し祝福された。神が安息されて、この世界に「安息」が創造された。そして、 旧約の民(ユダヤ)は、この日を安息日とするようになった。いかなる仕事もし てはならない日、安息する日だ。

  イエスは、ユダヤのファリサイ派の人たちに、安息日に麦の穂を摘むことを仕 事をしたとみなされ、律法違反だと咎められた。ファリサイ派の人たちは、「仕 事をしてはならない」ということに重きを置いていた。しかし、イエスは「安息 日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人 の子は安息日の主でもある。」と言われ、ファリサイ派を退けられた。 人が安息日に縛られるのではなく、安息日は人のためにある。人の命のため、 人が健やかに生きるためだ。命、人には休むことが必要だとされる神の慈しみを 思う。イエスは、この世界に安息をもたらされる方だ。重たい荷物を背負う者を 慈しまれる。

 7日目は安息され、命には安息が必要だとされる神の慈しみを思う。安息の日 に、神がこの世界を創造されたことを思い起こし、私達に安息が必要だとされた ことを思い起こそう。この神の慈しみを思い起こし、私達の生きる力としよう。

  ユダヤの国、イスラエルでは、安息日にスマホはならない。電話はかかってこ ない。電話会社が安息日を守るので、すべての回線を止めているという。毎日ス マホが鳴り続ける国にいる私達は、心落ちつく暇がないということはないだろ うか。さらには、安息のない世界があるとすれば、どんな世界なのだろうと思う。

  働くことは、私達が生きる目的とは何かということに直結する。どう生きるか ということは、人生観の問題、信仰の問題でもある。

  ファリサイ派を初めとするユダヤの指導者達は、何につけ「ねばならない」と いう思いで自他を束縛していた。しかし、申命記の安息日の定めをよく読めば、 安息日を守れ、「そうすれば休むことができる」と書かれている。安息日とは、 休むこと、安息が目的だと書かれている。この言葉にこそ耳を傾け、仕事の禁止 命令とするよりも、神の慈しみを聞くことが肝心だと思う。十分に安息をして、 生きることの喜びを取り戻すようにしたい。

 神は、私達に「安息」を用意された。この世界には「安息」が必要だ。そして、 神は私達の「人生の安息」を用意しておられる。ヘブライ人への手紙4章には、 神が用意しておられる「救い」「人生の安息」を目指そう、生きる糧としようと 励ましている。

   
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