ローマ皇帝アウグストゥスは権力を誇り、ローマ帝国に平和をもたらしまし た。しかし、病を得て最期の日、友人に「私がこの人生の喜劇で自分の役を最
後までうまく演じたとは思わないか」と尋ね、「この芝居がお気に召したのな ら、どうか拍手喝采を」との喜劇の口上を付け加えたといわれています。 人生は、いろんなものに譬えられます。どこまで歩むのだろう、疲れては立
ち止まり、転んでは起き上がり、上り坂を上り、下り坂を駆け下る。広い海の 中に浮かぶ船は、どちらに向かっていくべきでしょうか。
人生はジグソーパズ ルという人も。たくさんのかけらを並べますが、最期のⅠピースがいつも足り ない。旧約聖書のコヘレトの言葉は「空の空、いっさいは空である」と言い、
多くの人が共感しています。
創世記3章では、禁断の木の実を食べた人間アダムには、地は呪われたもの となり、働くことが苦しみになりました。報われないのです。何のために働き
生きているのか。これが人間すべての共通の言葉になったのです。
この箇所の初めに、神は禁断の木の実を食べたアダムに「どこにいるのか」 と問われました。アダムの神様に向かう姿勢、アダムが立っているところ(立
ち位置)が、ずれているのです。
どうしてこうなったのか。禁断の木の実を食べたから、つまり、神様を信じ、 神様の懐に守られていることに満足せず、自分の思いと力によって生きていこ
うとするようになったからです。
では、どうすれば良いのか。神様を信じ、神様に助けを求め、神様を信頼し て行くなら、少しは神の御心にかなう、歩み甲斐のある人生になるのです。で
も、これが難しいのです。
イエス様の慈しみ深い計らいがあります 神様に執り成してくださいます 神の前に不完全な罪人も救いたいと、イエス様は道を示し共に歩んでください
ます。
Ⅰテモテ1章で、パウロは自分のことを罪人の頭と言い、誰よりも罪深い私 に、神様は忍耐してくださっていた。だから、今の私があるというのです。イ
エスがこの世にお生まれになったのは、罪人を顧みて救いに招くため、平和に 歩むようにするためでした。
クリスマスを迎えました。私達は神の前に罪ある者です。不十分なもの、不 出来なものです。しかし、この私のために救い主は私の下に来てくださったの
です。日々を空しい気持ちで過ごしていても、人生ってどうしてこんなに思い 通りにならないのかと思う私達と一緒に、救い主イエスは共に肩を並べて歩ん
でくださいます。
罪に墜ちたアダム、私達罪人の祖先は、立ち位置がずれている、バッターボ ックスの外に立っているようです。それで、イエス様は、私達にバッターボッ
クスはここだと教えて下さいます。さらに、私達の罪や弱さあるがままに受け 入れてくださり、むしろ私達が立っているところをバッターボックスにしてく
れます。イエス様が一緒に立ってくださって、神様と向かい合うことができる のはここだとしてくださいます。後は一生懸命にバットを振れと。私を信じろ
と。罪の故に神の目から失われた人は、救い主の慈しみを受け、罪を赦され、 神との関わりはあるべき所に戻され、何も恐れることなく、神の前に立つこと
ができるのです。
救い主が私達の世に来てくださいました。この日から、私達が神様と共に、 しっかりと自分の人生を歩む旅は始まっているのです。神様、イエス様と共に
歩むこの旅は、神様の御心にそう歩み、生きていることを喜びとする、実り多 い旅になるでしょう。神様の御子イエス様こそ、私達がお迎えするべき、人生
最大の恵みです。
「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。 2:11 今日 ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ
(あなたの人生の)主メシアである。
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