聖書の神様は、人格神です。私達一人一人を尊い人格だと認めて向き合って くださる方です。英語では、人格神はパーソナルゴッド。私たち人間とパーソ
ナルな関わり方をする方です。私が笑っている時は、神様は私が笑っているこ とを喜んでいます。私が困っていたら、神様はどうにか助かるようにと必死に
なってくれます。これがパーソナルな関わりです。
今日の聖書箇所は、ノアの箱舟の物語の前書きの部分。神様は天地を創造さ れ、人を創造された。が、人は罪に墜ち罪人となり、この世界に広がりました。
5節では、「地上に人の悪が増し」、人が悪いことばかり思うようになったので、 神様は人を造られたことを「後悔し、心を痛められた。」神様はこの世界にい
る人や生き物を拭い去ろうと思われ、洪水を起して押し流してしまわれます。
神様は、人間の悪があまりにも耐えがたいので、人間に対して怒りをぶつけ ておられるのでしょうか。「後悔する」とは、人間を造ったことは間違いだっ
た、失敗だったと、人間のできの悪さに呆れておられるのでしょうか。人間な んか知ったことじゃないと突き放しておられるのでしょうか。
そのようには誤解されたくないのです。今日読まれた言葉、5-8節がなか ったら、ノアの洪水の話は、神様の怒りによって、この世界と人々が裁かれる
という話だと誤解されることでしょう。5-8節があるので、神様は私たち人 間のことを温かい心で覚えていてくださり、私たち人間を罪が深くても諦めな
いで関わってくださる、ということを知らされます。
「後悔する」という言葉は、旧約のヘブル語で「ニフル」。「後悔する」と訳 しますが、もう一つの意味は「慰める」です。慰めてほしくなるくらいに、人
間の罪深さに落胆したのです。落胆し悲嘆に暮れ、心からの遺憾の意を表わし たいのです。罪深い人々のことを思い、罪に満ちたこの世界のことを思うと、
2 残念で悲しくて仕方ない。人間の身になって、こんなに罪深い世界に生きるこ とになるとは、心の底から悲しまずにはいられない。だから、この悪に満ちた
世界を拭い去ると言われているのです。
全知全能の神様が「後悔する」ことはありえません。しかし、この箇所の著 者は、神様が絶対に何一つ間違うことがないとか、失敗はしないとか、そうい
う理屈を気にするよりも、神様が私達と共に生きておられ、私達のことを気に かけてくださり、まるで人間であるかのように神様が苦しみ悩みながら、懸命
にこの世界を救いへと導いてくださっていることを知らせたいのです。神様は 私達に温かい眼差しを向けてくださり、私達と共に歩まれる神様だということ、
人間のように生き生きとした心をもって私達と関わる方だということを「ニフ ル(後悔する)」という言葉は言い表しています。
神様は、本当は「後悔はしない」のです。そうではなく、私達罪人のために、 同情してくれて、親身になって悲しんでくださるのです。
マルコ福音書3章に、イエスの12人の弟子の名前があります。弟子たちは、 優れた人たちだったでしょうか。中でも、イスカリオテのユダがイエスを裏切 ります。イエス様は、最後の晩餐の席で言われました。「人の子を裏切る者は 不幸だ。生まれなかった方が、そのもののために良かった。」
イエス様は、罪人ユダを突き放しているのではありません。ユダが裏切った ことによって、どれほどの罪を背負うことになるのか、どれほど苦しまねばな
らなくなるのか、それは不幸なことだとユダの身になってくださっています。 同情してくださっています。
このユダに対するような大きな慈しみをもって、イエス様はいつも私達と共 におられます。私達と心を合わせて、共に歩んでくださいます。
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