イエス様は荒野に40日間とどまり、サタンから誘惑を受けました。サタン とは、悪の力、誘惑する者、訴える者です。あなたはそれでいいのかと訴える
のです。さまざまな素晴らしいものを見せ、人の欲望を刺激するのです。そう やって心の拠り所とすべき神様から引き離すのです。平和な心ではいられなく
させます。苦しめます。私たち人間は誘惑に負けますが、イエス様は荒野でど んな試みにも負けないで神様に従う方であることを明らかにされました。
イザヤ書11章には、救い主が現れる日のことが預言されています。「狼は 小羊と共に宿り/豹は子山羊と共に伏す。・・・乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ/
幼子は蝮の巣に手を入れる。」このイメージが、イエスは荒野で「野獣と一緒 におられたが、天使たちが仕えていた。」という言葉に込められています。イ
エス様が十字架にかかり、悪に打ち勝たれることがほのめかされているようで す。救いとは、サタンの誘惑から守ることだということを告げています。
「慈しみ深い神様がいるのに、どうしてこの世に悲惨なことが起こり、苦し みがあるのか。」この問いに応える議論を「神義論」「弁神論」と言います。神
の正しさを弁明する議論です。アウシュビッツのホロコースト、戦争や虐殺、 大災害、大地震、そして個人の生活の中の苦しみ悲しみ。これらは悪の力が働
いているからです。ならば、「慈しみ深い神様がいるのに、なぜ?」と思いま す。どうして神様は悪を許しているのかと思います。この問いに、論理的に、
まだ誰も答えることができていません。そして、私たちが苦しむ時には、ただ 意味もなく今この時、苦しんでいるだけです。愛する人を殺され奪われた人に、
愛する人は取り戻せません。私たちを苦しめる悪とは何か。この世に悪はどう して働くのかということを考えさせられます。
新型コロナ感染について思いを巡らせば、感染した多くの人が苦しみ、感染 しなくても様々な規制を課せられて不自由を余儀なくされています。明日のこ
とがわからないままに我慢するということを、世界中の人々は同じように体験 しただと思います。悪の力、私たちを困らせる力、あなたたちの思い通りにはさせないぞという力が働いているということではないでしょうか。
そこで、苦しみに耐えるには、何が必要なのか、神を信じる私は、苦しんだ 人に何を語ることができるのだろうかと考えました。答えは、神様の約束する
明日があると信じることです。今はわからない。しかし、神様がおられるなら、 明日はある。救いはある。苦しみは報われると信じる。苦しみに負けない、悪
に負けないために、神様がおられること、神様が約束している明日を信じるこ とだと思います。世の人々に「神様を信じましょう」ということの意味の大き
さを思います。明日がある、明日が来る。神の国は来る。救いはあるというこ と。苦しみは必ず報われる日が来るということを信じていきたいと思います。
昔から「神議論はするな、関わるな」と言われています。中世の神学者にも、 神議論はご法度でした。今日、神様を理屈で問い詰める人が多いので避けて通
れなくなりましたが、この議論、抜け出すことのできない泥沼に落ち込んでし まうのです。神を信じなくさせる誘惑に晒される、まさに荒れ野に身を置くよ
うなことです。人の弱さを思わされます。
イエスが荒野にいる間「野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。」 「狼は小羊と共に宿り/豹は子山羊と共に伏す。」真の平和の日が来ます。苦
しみが報われる日が来ます。救いの日が来ます、神の国は来ます、このことを 信じて、神様を離れず、悪に打ち勝っていく者でありたいと思います。
イエス様は、荒れ野を出て、ガリラヤへと赴かれました。そこは、歴史の流 れに翻弄された土地です。一筋縄ではいかない、憎しみも悲しみも、様々な欲
望も、人間のむき出しの思いが溢れているところです。人の罪や欲望が渦巻き、 悪の力、サタンのうごめいているところです。そのガリラヤで、イエス様は叫
ばれました。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」 この世界の中で、私たちの街の中で、今も、イエス様は叫んでいます。
イエス様は、「私がここにいる」と言われています。「救い主が来たのだ」と 言われています。神様に従う人、悪に負けない人が現れました。神の国は近づ
いたのです。私たちの明日に、これからに、神様の救いがあると、約束されて いるのです。十字架にかかる神のみ子、イエス様が現れたのです
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