日本キリスト教団

2022.03.13 説教ダイジェスト
礼拝説教要約
「真っ直ぐな心」
マルコによる福音書3章20-27節
  イエス様のもとにたくさんの病人が集まり、イエス様は病人を憐れみ、癒し の業をなさいました。そこに、エルサレムから下ってきた律法学者たちが来て、 「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、イエス様のことを悪霊の 頭だと言いました。救い主に大きな疑いの眼差しを向けます。

 イエスは、サタン同士で内輪もめしていては、サタンを追い出すことにはな らない。サタンを追い出すには、悪霊の頭を捕まえ縛り上げてしまわなければ ならない。だから、イエスが、私が悪霊の頭であるはずはない。イエスは神の 力を使うことができる、神の子であると言われました。

  「家」という言葉に注目します。イエス様は、「家」で癒しの業をなさって います。今この時、その家にいなければならない方は、イエス様です。ですか ら、イエス様が家の主です。一方で、ベルゼブルとは、もともとは「家の主」 という意味の名前だと言います。神様がいつしか悪霊というものになったとい うのです。すると、イエス様は今、同じ家の主でも、救い主なのか、サタンな のか、まったく反対の意味で家の主です。律法学者のような間違った見方を、 どうすればできるのか、呆れたものだと思わされます。

  神のみ子を悪霊の頭と見てしまう大間違い、これは歪んだ眼を持ち、歪んだ 心を持っているということです。神が遣わされた救い主が、大きな慈しみの思 いから病気の人を癒しておられる。その姿を見て、悪霊の業だという。とても 残念なこと、悲しいことです。

 福音書に描かれているイエスの姿は、ユダヤの伝統である律法に対して熱心 でなく、神殿に対してもさほど敬意を払わず、罪人の友となる姿です。このよ うなイエスは、律法学者の理解を超えていたのでしょう。今までこんな人はい なかったのでしょう。律法学者たちは、妬み、憎しみ、敵意、殺意すら抱いて、 予断、偏見、先入観に満ちた目でイエスを見て、罪を犯してしまいました。

 今、受難節です。私たちの身を振り返り、目の前の人を偏見を持ってみる、 悪い思いをもって決めつけることをしていないでしょうか。私たちの目の前に 2 いるすべての人は、神様、イエス様が愛している人です。その人をそのように みるなら、神様を悲しませていることでしょう。

  マルコ福音書の1章に、世の人々がイエス様を救い主として抵抗なく迎える ことができるように、洗礼者ヨハネがいました。預言者イザヤの言葉を引用し、 「主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。」としています。救い主イエ スが現れたなら、真っ直ぐな心でお迎えする。そのことのために、洗礼者ヨハ ネは世に現れました。

  洗礼者ヨハネは、様々なことにこだわりながら目を曇らせてしまったり、い ろんな言い訳をしたり、右に左にねじ曲がった道にしてしまうのをやめように、 勧めていたのでしょう。ヨハネのもとに押し寄せた人々は、自分の思いを控え つつ、いさめつつ、むしろ神様の御心を尊び、神様が遣わされた救い主をその ままにお迎えすることの大切さを知るようになったのだろうと思います。しか し、律法学者には、それはできなかったのです。

  明治の、日本人の最初の牧師の一人、植村正久は、「どんな人が立派なのか」 という娘の問いに、「正直で親切な人」と答えたといいます。神の前に正しく ある人。正義を望む人。そして、神の愛を知り、親切な人ということです。 人々と関わり、共に生きることについて、信仰の勘所を説いたという逸話です。

 正直で親切とは、福音書のイエス様の姿を思い出します。人々をありのまま に受け止め、罪人の友になられました。人の身になり、その人の良いことを願 い、寄り添ってくださいました。あの徴税人ザアカイに近づいてくださったよ うに、罪人にすら悪意を向けるどころか、一人ひとりに対して慈しみを示して くださいました。このイエスは、律法学者に限らず、誰もが今までに見たこと のない人、見たことのない姿,振る舞いだったのでしょう。

  どうしてそのようにできたのでしょうか。聖霊の力によって、神を愛し人を 愛する歩みを全うなさったのだと思います。29節「しかし、聖霊を冒涜する 者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」聖霊が働いて神の愛に励まさ れるということの掛け替えのなさを伝えています。神様の助けにより、真っ直 ぐな心、正直で親切な心で過ごしましょう。

   
 愛隣こども園
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