イエス様は「わたしはまことのぶどうの木」であると話されました。イエス様 はぶどうの木、イエスの父、神様が農夫です。イエス様はユダヤの国、神の民の
ことを旧約聖書でブドウの木に譬えていることを思い出しておられたのでしょう。
私は20年ほど前に、ブドウの木を育てたことがあります。教会の玄関前に少 し広い場所があり、信徒の方がブドウの苗を持ってこられましたので、そこに植
えました。たくさんの枝を伸ばし、たくさんの葉をつけました。思い切って枝を 切り、枝や葉を半分くらいの量にまで切り込みました。そうしますと、秋になる
と赤い実がたくさんついたのです。ブドウの実は枝をたくさん切り落とすから、 しっかりと選定するから実るということを知りました。神様が農夫であり、ブド
ウの木をしっかり選定するから、世話をしてくださるから実が豊かに実ると言わ れているのは、そうなんだと思わされます。
私たちはイエス様を救い主だと信じて、イエス様のぶどうの木につながってい ます。ブドウの木につながる一本一本の枝が、私たちです。その枝が実を結ぶよ
うに神様が世話をしてくださっています。私たちがイエス様を信じる心を失わな いように、イエス様の救いの恵みを豊かに受けるように、イエス様をいよいよ深
く信じ頼っていく心が深まるように、神様が私たちを導いてくださっています。 目に見えない神さまの働きを信じていましょう。今、私たちはイエス様を信じて
いる、ブドウの木につながっている。これからもつながり続け、恵みをたくさん いただいて、救いの素晴らしさを喜ぶようにしようと、イエス様は弟子たちに、
私たちに呼びかけています。
4節「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。」 ここで、「つながる」「つながっている」という言葉が使われています。「つなが
る」という言葉は、「留まる」という言葉です。わざわざ「留まる」ということ を言うのは、気が付かないうちに離れてしまうことがあるからです。この時、イ
エス様を信じる人たちにとって、その身を置く周囲の状態は、信仰にとって厳し い状態だったのです。あるいは、誘惑の多い状態だったのです。イエス様のこと
を救い主だと信じることに疑いをいだくようにさせる機会やそういう人々との関 わりが生じていたのです。それで、「わたしにつながっていなさい」と言われま
すし、「とどまりなさい」と言われているのです。ブドウの木につながる枝や葉 が、どんなに強い風にあおられても決して吹き飛ばされることなくつながってい
るように、イエス様につながっていましょうと念を押しているのです。
一人ひとりが自覚をもって、私はイエス様を信じているのだ、救われるのだと、 そういう意志をもって、信仰をもっていましょうというのです。イエス様につな
がっているなら、この世のどんなものも与えることのできない素晴らしい恵みに 与ることができると信じるのです。実りを結ぶことを、そのことを心の底から期
待して、その日が来ることを信じ続けるのです。
ヨハネ福音書が書かれた時代は、クリスチャンの3代目の時代。イエス様がお られた時から60年がたっていました。イエス様の弟子たちは、初めはユダヤ教
の神様を信じる仲間と思われていましたが、60年たって、だんだん違うことを 信じているようだと気づかれるようになり、ついに仲間ではないということにな
り、交わりから追い出されたり、信仰を否定されたり、迫害されたりするように なりました。信仰を保つことが難しい、信仰を守らねばならない、信仰の危機の
時代になったのです。イエス様のぶどうの木につながっているとは、様々な世の 困難の中にも、信じなさい、救いに与りなさいと励まし促しているのです。
イエス様は「わたしはまことのぶどうの木」と言われています。単なるブドウ の木ではない、どこにでもあるブドウの木ではない。「まことのぶどうの木」で
す。真の救いをもたらす唯一の木だと言うのです。イエス様は、弟子たちに語り 掛け、どんな信仰の困難の中にも信じ続けるように願っておられるのです。
讃美歌「慈しみ深い」の歌詞を書いたアイルランド出身のジョセフ・スクライ ヴェンは、一度ならず二度までも婚約者に先立たれるという痛ましい不幸にあい
ました。深い落胆と孤独にさいなまれます。そして祈ります。主を仰ぎ、深い慰 めを得ました。心配している母親に手紙を書き、慈しみ深が共にあり、深く慰め
られていると伝えようとしたのが、「慈しみ深き」の歌詞です。イエス様という ブドウの木につながる生涯でした。「わたしにつながっていなさい」とイエス様
は私たちに呼びかけています。イエス様こそ私を救ってくださる方だと信じ、信 仰の実りを必ず与えてくださることを信じていきましょう。
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