マザー・テレサは、カルカッタの聖人と呼ばれた人。道端で倒れている人を 連れ帰り、介抱し死を看取りました。この活動に感銘を受けた日本人の修道女
たちが、マザー・テレサのもとを訪れ、「ここで働きたい」と申し出たのだそ うです。すると、「あなたの国に帰りなさい」という返事。「あなた方のキリス
トの慈しみを現したい、人を助けたいという思いは、ここでなくても現わすこ とができるはずだ」という意外な返事でした。
日本に帰れば、日本にもキリストの愛を必要としている人たちがいます。わ ざわざカルカッタまで出かけなくても、なすべきことはあるのです。遠くの町
に出かけなくても、自分がいるところで、キリストの愛を現すことはできます。 今、私がいるところで始めればいいのです。
イエス様が悪霊に取りつかれていた人を癒されました。イエス様に癒してい ただいて心から喜び感謝しています。さらに、イエス様と一緒にいたいと申し
出ました。イエス様は、次の町へと出かけていこうとしていましたが、「あな たはついてくるな」と言われました。「ここにいなさい」と、「ここで自分の身
に起こったことを、この町の人たちに話しなさい、そうやって神の栄光を現し なさい」と言われました。わざわざイエスと共に遠いところに出かけなくても
よい。あなたがいる場所、あなたの住んでいる街で、あなたの親しい人に、あ なたの神様への思いを語りなさい、現しなさいと言われたのです。
宗教改革者マルティン・ルターは、修道院はいらないと言いました。この世 から隔たった特別な聖なる場所、修行をする場所は必要ないと言いました。そ
うではなく、私たちが生きている場所、日常生活をしている場所、そこで私た ちは信仰を養い、信仰を現し、神様のみ栄を現すのだとしました。特別な場所
に行かなくても良いのです。私たちが生きていることが、神の愛とみ栄を現す ことになるのです。すべての職業が、神からの召命であるのです。 「あなただから」できることがあるのではないだろうか。
あなたが「ここで」 求められているのではないか。個性や賜物、他の誰とも取り換え不可能なこと、 2 あなただからできることがあります。あなたが今ある立場、人との関わり方、
それは他の誰かと交代できないということもあります。
7月の参議院選挙の候補者が公表されました。中には、自分が過去にこうい うことを経験したので、それで社会をこのように変えていきたいということを
訴えています。「あなただから知っていること」があるのです。それぞれに、 今の私、それが貴重なのです。それが神様の導きなのです。一人ひとりが今こ
こにいることを活かしていきましょう。
渡辺和子先生は、著書を通して「置かれた場所で咲きなさい」と私たちを励 ましておられます。今いる場所、置かれたところがいつも良い条件でなくても、
ということですが、どんなところでも心構え次第で、何かすべきことがあるこ とを教えてくれています。今私がいるところはどういうところなのか、そのこ
とを今一度振り返ることの大切さ、なんでもない場所でも神様からの宝物が隠 されているのかもしれない、そんな思いで前向きに周りを見回してみることが、
新しい生き方や神様の豊かさを味わう生き方へ導いてくれるかもしれません。
イエスの弟子たちは変わりました。周りは変わりませんが、弟子たちは変わ りました。聖霊に満たされた弟子たちは、勇敢に大胆にイエスが救い主だと語
る人に変えられました。それは、十字架が神の愛だと知ったからです。何より 恥ずかしくむごたらしい出来事が、神の素晴らしい計らいだったことに気付い
たのです。使い物にならない石だとみなされて捨てられた石は、しかし、誰に とっても掛け替えのない要石(かなめいし)だったのです。
持病に苦しむパウロに、神様は「わたしの恵みはあなたに十分である。力は 弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。悪霊を癒された人が
病気だったことで神様の慈しみを証しすることができるように、イエス様の十 字架と復活は、私たちが良いと思うものだけでなく、嫌なもの、恥ずかしいも
の、隠してしまいたいと思うようなものでも、神様の愛や恵みを知るきっかけ になりますね。
今日は、東京に一極集中する弊害が説かれるようになりました。大都会だけ でなく、どこの町にも神の愛があることを現わしていきましょう。
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