伝道者パウロはギリシャのコリントという町を訪れ、そこに教会が生み出さ れました。この当時、人々からの尊敬や報酬を得ることを喜ぶ不心得な伝道者 もいたようです(フィリピ1章15節)。それで、パウロのことも、本当に純 粋な動機で伝道しているのかと訝しく思う人もいたのですが、パウロは、この 手紙を書いて、紛れもない真っ当な使徒なのだと訴えています。
私は、「神の協力者」であり、「人に罪の機会を与えないように」、つまり、 自分を疑うことが無駄であるほどに信仰によって働いているのだというのです。 1節「神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。」パウロはキリスト を信じて救われた、ただそのことが嬉しいのです。救いの恵みを無駄にしたく ないので、恵みを受けていることを掛け替えのないものと思い、活かし用いる といういのです。それが証拠に、どんなに苦労の多くても、行き詰まってしま うような時にも暴力を受けるような時にも、身の危険に身構えひるんでしまい そうな時にも、辱めを受ける時も、悪評をたたかれる時も、6節「純真、知識、 寛容、親切、聖霊、偽りのない愛、7 真理の言葉、神の力によって」働いてい るのだというのです。
「今日は、恵みの時、今こそ救いの日。」パウロは、決して、ああ幸せだと、 手放しで喜べないような状況の中にあります。しかし、キリストの救いに与っ
たことを思うなら、一切は全く反対に、恵み豊かに見えてくるというのです。 パウロは、キリストのよって救われた、このことを中心にして、自分のこと、
自分の周りのことを見ているのです。
では、私たちにとって、今というこの時は、どんな時でしょうか。今はどん な時か、いろんな見方があるのだと思います。人類の歴史やそれぞれの国の歴
史を振り返って、どんな時代かと言うこともできます。もっと身近なこととし て、一人ひとりの今生きている思いに照らして、今の時はどういう時なのかを
言うこともできます。パウロは、どんな日々を過ごしていたのでしょうか。伝 道の働きをする中に、晴れの日も雨の日もあり、山を登る道も谷を下る道もい
かねばならなかったでしょう。そういうことはあるとしても、それでもなおパ ウロは「今や、恵みの時、今こそ、救いの日。」と言うのです。キリストを信
じ頼りにしている私たちも、同様です。イエス様が共にいてくださる今、私た ちにとって「今はどんな時」でしょうか。
今日の箇所で、パウロが「恵み」という言葉を手紙に書いているのですが、 それは、一般的な恵み、カリスという言葉ではありません。「歓迎されている」
「受け容れられている」という言葉が使われています。つまり、聖なる神様、 正しい神様の前に、私たちはいろんな罪や過ちの故に引け目を感じているのに、
けれど、神様は温かく私を受け容れてくださる。このことを「恵み」と言って いるのです。キリストを信じるようになる前、パウロは、キリストを信じる人
たちを迫害する人でしたから、なおさらのことです。神様に顔向けできないよ うなこんな私を受け容れてくださる、本当にありがたいこと、ありえないこと
だと心から感謝しているのです。
新約聖書の中に、『フィレモンへの手紙』という、たった1章しかない手紙 があります。パウロは一人の若者オネシモに対して、限りない慈しみの思いを
向けています。奴隷であったオネシモは、パウロが牢獄に監禁されている時に、 主人フィレモンのもとから逃げ出して、パウロを頼りにやって来た。主人のも
とから逃げ出し帰らない。これは、信頼を大きく失うこと、もはや誰にも顧み られなくなるような、取り返しがきなくなる由々しき事態でした。しかし、パ
ウロは、主人フィレモンに、オネシモを送り返すから寛大に受け止めてほしい と手紙を書いているのです。「もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、つ
まり愛する兄弟として」迎えてほしいというのです。
赦されて、赦す。愛されて、愛する。受け容れてもらい、受け容れる。神様 の前に嘘偽りなく、このことがなされる時、私たちの心は、いよいよ前向きな 思いに満たされ、生きることに意味を見出そうとするのだということを示され ます。神様に受け容れてもらっている喜びは、私は生きていて良いのだという 自分の存在を肯定することです。神様は、「あなたがそこにいることが嬉しい」 と思ってくださっています。私たちの生きる力は、ここにあるのです。
|