ヤコブは、叔父さんのラバンの家を目指して旅をしていました。歩き始めて 数日後のある夜、岩肌露な荒涼とした荒れ野の中に一人、石を枕にして寝てい
ると、夢を見ました。12節「先端が天まで達する階段が地に向かって伸びて おり、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた。」
神様はヤコブの夢に現れて、語り掛けられました。イスラエルの族長アブラ ハムに約束したとおりに、土地を与えること、子孫が増え広がることです。さ らには、ヤコブの旅が終わるまで神様はヤコブと共におられ、どこにいてもヤ コブを守り、旅を始めたこの土地に必ず無事に連れ帰ってくださると約束され ました。
ヤコブは、人を出し抜く人でした。ある時、兄から長子の特権をだまし取っ たのです。それで、兄の激しい怒りを買うことになりました。ヤコブ自身も、 兄の怒りを本気で恐れていたようで、母親の言う通りに、兄から離れるために 家を出ることにしたのです。この旅は、決して意気揚々としていたわけではな く、とても足取りは重かったでしょう。その時、ヤコブの夢に神様は現れ、語 り掛けられました。神様はあなたを見捨てない、どこにいてもあなたと共にい ると言われました。
ヤコブは、「主が私の神となられるなら」と言っています。これはどういう ことでしょうか。ヤコブにとっては、神様はまだ自分の神様ではないと言うか
のようです。ヤコブは、神様が自分を守ってくださるということを、この時は まだ心底信じてはいないのです。神は、私とどんな関係があるのだろう。この
旅を終えて戻ってくることができたならば、その時、神様は自分の神様だ、自 分をしっかり守ってくださったと感謝しよう認めよう、と言っているのです。
ヤコブには、神様の語り掛けた言葉、その慈しみ深い思いは届いていないよう です。あるいは、神様は私のことを守ってくださると言うけれども、こんな失
敗をしでかすような出来損ないの私でも良いのですかという、自分を卑下して、 投げやりな気持ちだったのかもしれません。
創世記35章には、ヤコブは旅を終えてこの場所に戻り、神様を信じ感謝し て、この場所、ベテルに記念の祭壇を築いたと記されています。旅を終えたヤ
コブは、一言では言い尽くせないその旅の間、神様が共にてくださったことを 心から感謝する人になりました。ヤコブが神様に守られ、神様に心からの感謝
を表す人になったことを、心から良かったと思います。また、私たちの人生の 旅も、このヤコブのように、神を信じる人として、神様の慈しみを経験した人
として、終わりを迎えていきたいと思わされます。
私の母が中学生の私に言いました。「一度にこんなにたくさんの買い物をす るとは、もう少し考えて買い物をしなさい。後悔しないようにしなさいね。私 は言っておきましたよ。」私の母は、その深い愛情をもって私に忠告してくれ たのです。人の将来を案じて、暖かい思いをもって語り掛ける言葉として、私 の母の言葉が私の耳の中に聞こえてきます。
ヤコブの夢の中に現れた神様も、「私は言っておきましたよ」というお気持 ちだったのではないでしょうか。神様が語り掛けた言葉が、ヤコブの心を今す ぐには動かさないとしても、日毎にヤコブの心の中に宿され、いつの日にか、 この言葉を思い起こして、神様の慈しみを自分のこととして思うようになれば、 それでよいのだと思います。それにしても、ヤコブは今、人生の岐路に立たさ れています。神様の温かい思いこそ知らされるべき時でしょう。
私たちが神様を愛するから愛し返してくださるということで、私たちの神様 との関わりが始まるのではありません。その反対に、神様が一方的に、私たち の神様への気持ちがない時でも、それでも神様が愛してくださっているので、 既に神様と私たちの関わりは始まっているのです。私たちの神様は、ご自分の 方から私たちに近づき、私たちに温かい思いを表してくださる神様です。
ドイツの神学者ティリッヒが言うように、私たちの信仰、救いとは、「神様 が私を受け容れてくださっているということを受け容れること」です。既に受 け容れてくださっているのです、そのことを信じるのです。改めて神様の心の 広さを思わされ、心から感謝したいです。
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