パウロが、トルコのアンティオケアという町を訪れた時の出来事です。ユダ ヤ人の会堂の礼拝でキリストの福音を語りました。多くの人が感銘を受けまし
た。しかし、会堂に大勢の人が押し寄せている様子を見たあるユダヤ人は、 「この群衆を見てひどくねたみ、口汚くののしって、パウロの話すことに反対
した」のです。そこで、パウロは、ユダヤ人が福音を受け付けないのなら、異 邦人を救いに招くことにするのだと宣言します。
イザヤ書49章6節の言葉を示します。神は、神の民ユダヤの国は一度は滅 んでも、再建され、世界の中に神の民が存在することが、地の果てにまで、世 界中の人々を神の救いに招く礎になるのだと言われました。パウロは、キリス トの福音がユダヤの人々だけでなく、世界中の人々に向けられているというこ とが神の計画だと示しました。
神の救いは、地の果てにまで及ぶのです。ユダヤの人だけに限らないのです。 けれど、パウロを罵るユダヤ人は、自分が信じていることが正しいのだという ことを超えることができなかったのです。私たちは自分の思いで心を一杯にし てしまいますが、自分の思いを少し抑えて、神様はどのようなことを御心をし ておられるのだろうかと、神様の思いを探る心を持つことが大切です。
他の宗教と比べるとキリスト教は、伝道するということに殊更に一生懸命な 宗教です。神様がすべての人を、地の果てに至るまでの人々を愛されているこ とを尊重するなら、地の果ての人々まで福音を告げ知らせるように促されます。
「教会は伝道することをやめたら教会ではなくなる」「教会は伝道すること が使命である」。教会について説明している本を読むと、このように言われて
います。教会は、伝道しないなら教会ではなくなる。要するに、教会が一番大 事にしていることは、神の愛があること、イエス・キリストに救われることで
すが、神の愛は全ての人に向けられているのです。神様がすべての人を愛して おられるので、教会に集う私たちも、神様に倣い、神の愛に倣ってすべての人
を愛する、伝道するのです。
私が驚かされたことですが、キリスト教のある教会では、わざわざインドの 近辺のイスラム教の人たちの住んでいる国や地域に信徒を送り込んで、イスラ
ム教から改宗させる。そして、自分が所属する教会の人々にその人たちの活動 の報告をさせる。他の宗教を信じている人々を意図的に伝道の対象にし、その
成果を競い合うというのです。キリスト教が伝道熱心だとしても、ここまです るのかと言葉を失います。一言でいうと、この伝道はキリスト教(宗教)のた
め、教会のため、つまり、自己目的的です。
しかし、文字通りの「地の果て」がなくなったような今の時代に、本当に 「地の果てにまで」と、まともに受け止めて伝道するなら、こういうことにも
なるのかもしれません。しかし、神の愛がすべての人に向けられている、この ことに基づこうとすれば、冷静に考えなければならないことがあると思います。
神の愛は、どのようにして表されるのでしょうか。
そして、パウロの働きを罵るユダヤ人、パウロの話を聞く人が大勢いること をねたんだ。これはどういうことだろうと思います。自分中心な思いですね。
私の知人は、ある人の家族に不幸があったとか、あの人はお金持ちだと聞い て、ある宗教の人が関わりを求めてくる。入信を求めてくる。宗教によって、
いろいろ困ったことがあると言っていました。そういう経験者がいました。こ れは、宗教団体や教会の繁栄のため信仰を人に求めているのです。自己中心、
自己目的な信仰、伝道だと思います。このことが人騒がせなのだろうと思いま す。こういうことはないようにしたいと、同じ宗教に関わるものとして思いま
す。伝道は、一から十まで隣人の救いのため、一人が救われるための働きです。
日本の多くの教会や学校も、明治の初めに欧米から日本に来た宣教師たちに よって働きを始めました。その人たちは、「地の果てにまで」伝道する、明確 な使命感を抱いておられたのです。この方々のお働きを心から感謝します。明 治の初めと今と、社会の中でキリスト教に期待されていることも変化している と思います。けれど、神様が全ての人を愛していることを忘れないでいること が一番大切なことだと思います。神様が全ての人を愛していることにしっかり と立って、愛の業を一生懸命にしていきたいと思います。
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