日本キリスト教団

2022.09.11 
説教ダイジェスト
礼拝説教要約
「神の憐れみ」
ホセア書11章8-9節
  11章1節「まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。エジプトから彼を 呼び出し、わが子とした。」神様はエジプトから救い出した人々を、親が子ど もを愛するように、いとおしみ大切に愛するようになりました。シナイ半島の 荒野を歩む民に十戒を授けますが、それは神様とイスラエルの人々が互いに尊 び合い、愛し合うという約束を交わしたということです。しかし、イスラエル の人々は、この約束を忘れてしまいました。2節「彼らはわたしから去って行 き/バアルに犠牲をささげ/偶像に香をたいた。」

  8節「ああ、エフライムよ/お前を見捨てることができようか。イスラエル よ/お前を引き渡すことができようか。アドマのようにお前を見捨て/ツェボ イムのようにすることができようか。」イスラエルの民を、罪の町アドマやツ ェボイムと同じように滅ぼしたり、見捨てたりすることはできないのです。9 節「わたしは激しく心を動かされ/憐れみに胸を焼かれる。」

  新約聖書のマタイ福音書9章35節「イエスは町や村を残らず回って、会堂 で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。36 また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見 て、深く憐れまれた。」この「深く憐れまれた」という言葉は、ギリシャ語で スプラングニゾマイ、人の辛い目に遭っている様子を見ていると自分のはらわ たがちぎれるくらいに心が震えるという意味の言葉です。イエス様の憐れみは、 それほどに深いものでした。
 
 今日のホセア書でも、神様はイスラエルの民のことを見捨てることはできな いと言われ、8節「わたしは激しく心を動かされ/憐れみに胸を焼かれる。」 と言われています。愛するからこそ子供のことを思って我慢できないくらいに 苦しんでいるのです。自分を忘れるくらい愛する人のことで心がいっぱいなの です。

  ホセア書は、神の愛を物語っていますが、ホセアが語る神の愛とはどういう ものだったのでしょうか。ホセアには妻がいましたが、ホセアのもとを去った のです。この当時、ユダヤにはバアル礼拝をする神殿があり、神殿の娼婦にな りました。そして、神様は、その妻をもう一度妻として迎え入れなさいとホセ アに命じられたのです。夫を裏切り、神を捨てた人。かえってこちらから見捨 ててしまっても良いとも思うような人なのに、神様はその妻を迎え入れなさい と言われるのです。これは、「人情」ではありません。神様は人と人との間の 「誠実さ」を取り戻すようにと言われているのです。

  サン・テグチュペリの小説『星の王子様』。その中で、「本当に大切なものは 目に見えない」と言いわれています。また、「関わりを持ったものには、いつ までも責任があるんだ。」とも言っています。私たちが関わりをもった人に対 して、その人に、その人の人生に、なにがしかの責任を持つことになったのだ という思いでいること、これを誠実さというのだと思います。

  ホセアにとって誠実であるとは、去っていった妻を迎えることですが、これ はなかなか難しいことだったと思います。たぶん気が進まないことだっただろ うと思います。世の人々はホセアのことをどんな目で見ることでしょうか。本 当に元のさやに戻り、元通りになれるものなのでしょうか。

  9節「わたしは神であり、人間ではない。お前たちのうちにあって聖なる者。 怒りをもって臨みはしない。」神様が、神様らしく振舞いたいのだと言われて います。人間には気が進まないこと、怒りばかりが湧いてくることでも、神様 は愛をもって望むと言われるのです。

  神様はシナイ山でイスラエルの人々を自分の子としたことを忘れることはあ りません。ひとたび関わりを持った人たちに対して、神様は誠実さ(真実)を 貫いてくださるのです。どんな罪深く、恩知らずな人々だとしても、神様が神 様の民だと認めたのですから、最後まで慈しみを向けてくださいます。

  私たちは、「旧約聖書の神様は厳しい」と言います。神様が厳しいのは、人 が罪を犯して、罪の穴の中に沈んでいくのを見たくないからです。言い換えれ ば、神様が神様だから、どこまでも誠実だからではないでしょうか。神様は人 間にはまねのできない誠実な方だからこそ、人々に厳しいこともなさるし、誠 実だからこそ、誰よりも愛に溢れた方なのではないでしょうか。



   
 愛隣こども園
宮城県仙台市青葉区五橋1-6-15
〒980-0022 ℡:022-222-3242