今から2年前に、遠藤周作の未発表の短編小説が発見されました。題名は 「影に対して 副題:母をめぐる物語」。遠藤周作の父と母は、十歳の時に離
婚し、その父と母の間で揺れる複雑な息子の心境を記録しています。父親は堅 気な勤め人。方や、母親は東京の音楽学校を卒業したバイオリニスト。母親は
毎日毎日バイオリンの練習。家事はしない。そういう姿に、父親は不満を募ら せ、親兄弟をたきつけて、ついに家から追い出してしまいます。母親が亡くな
って10年後、自分の体験をもとに小説を書きました。
母が書いた手紙の言葉が出てきます。息子に父親のような歩み方はするなと 勧めています。「あなたもテクニックだけの人生を生きるような人間にならな
いでほしいと思いました。」「アスファルトの道は安全だから誰だって歩きま す。・・・でもうしろを振り返ってみれば、・・・自分の足あとなんか一つだっ
て残っていやしない。海の砂浜は歩きにくい。歩きにくいけれどもうしろをふ りかえれば、自分の足あとが一つ一つ残っている。そんな人生を母さんは選び
ました。あなたも決してアスファルトの道など歩くようなつまらぬ人生を送ら ないでください。」
職業を成すための必要な技術を手に入れ、もくもくと仕事をこなしていく。 心を籠めるとかということはなく、何人の人が目の前に現れても、ただ通り過
ぎていくだけ。自分の周りに波風立てず、要領よく出世の階段を上っていく。 これがテクニックだけの人生、アスファルトの道を歩くということでしょう。
この言い方を今日の箇所に当てはめると、イエスと罪人を受け容れられない ファリサイ派の姿が重なります。ファリサイ派の人たちは、一生懸命に律法を
守るのです。やったかやらないか。どれだけしっかりできたか。どれだけたく さんできたか。こういうことで、自分の正しさを主張する。形だけのことで、
心を込めたかどうかは問題ではない。神様の為と言いながら、本当は自分のた め。隣人の存在は、自分の正しさを証明するための比較の材料。
その反対に、海の砂浜を歩く生き方、「歩きにくいけれど、うしろをふりか 2 えれば、自分の足あとが一つ一つ残っている」歩き方があるというのです。今
日の聖書の箇所で言うなら、これは、イエス様のこと、イエス様に救いを見出 した罪人たちのことです。
母親の言葉を解釈すれば、バイオリンを弾くために必要なのはテクニックだ けではない、音楽とか、演奏する曲に対する作曲家の気持ちとか、バイオリン
を演奏することの楽しさや喜び、目に見えないものをつかんでいることが、そ ういう心が大切なのでしょう。失敗しては練習し、納得がいかないと繰り返し
同じことをこれでもかこれでもかと練習して、言葉にならない感覚をつかんで いく。そういう言葉にならない感覚というものがあるのではないでしょうか。
周作の母親はバイオリンの演奏にそういうものを求めましたが、神様は人生 に対するそういう感覚を持つ人を、そういう人から神様のもとに、イエス様の
そばに招いてくださっているのではないでしょうか。海の砂浜を歩く人という のは、イエス様、そしてイエス様のもとに集まっている罪人たちです。この人
たちが自分の人生を振り返ってみたら、足跡がはっきりと残っているはずです。
徴税人レビは、通りすがりのイエス様に呼びかけられ、すぐにイエス様に従 いました。レビは救いを求めている人だったのです。こういう人にイエス様は
声をかけられるのです。人の心にある何かを感じる、そういう人の心と心を共 鳴し合える心を持っておられたのではないでしょうか。
今日の社会は、高速道路や新幹線のようにスピードを出して、いかに早くた くさんの距離を移動することができるかを競っています。アスファルトが敷か
れている道が良いです。こういう社会の中で、イエス様の愛を語り、福音を語 ること、その大切さ、必要性を、神学校日には改めて思いたいのです。
私たちの社会の中に、スピードを出して早い速度で走っていたら目に止まる ことがない、誰にも気が付かれない小さな人たちがいるのではないでしょうか。
そういう人たちのことを、私たち人間が忘れてしまったとしても、神様は覚え ておられます。イエス様は、そういう人たちのもとに行かれ、一緒に過ごされ
ました。今、海の砂浜を必死に歩んでいる人たちにイエス様のこと、神様の愛 や救いを伝えたい。こういう思いを持って働く人たちが育ってほしいです。
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