今日の箇所は、族長ヨセフの物語のクライマックスです。ヨセフの兄は10 人、ヨセフは兄たちに疎まれる存在でした。兄たちは生意気な弟を憎むように
なり、砂漠を行き交う商人に売り飛ばしてしまいました。ヨセフは、エジプト まで連れていかれて、宮廷に仕える人に買い取られ使用人にされました。しか
し、ヨセフには夢を解き明かす特別な能力があったので、エジプトの王様の目 に留まり、王様の次の位にまで出世したのです。
何年もの年月が過ぎ、エジプトやその周辺の国々では、稀に見る飢饉となり ますが、エジプトにはたくさんの食料があると聞いた人々がエジプトのヨセフ
のもとに助けを乞いに来るようになりました。その中に、ヨセフを売り飛ばし た兄たちがいたのです。
兄たちはヨセフがエジプトにいるとか、高い位にまで出世しているというこ とは知りません。ヨセフは最初、兄たちには自分の身を明かしませんでした。
しかし、いよいよ兄たちが切羽詰まって助けを乞いに来るので、ヨセフは気を 許して、自分があなたがたの弟である、ヨセフであると実を明かしました。
苦しめられたのはヨセフ、苦しめたのは兄たちです。兄たちは、弟を苦しめ たことを後悔しています。そこで、苦しめられたヨセフが、兄たちに対して、
どのような態度をとるのか、ヨセフの一存によって、今までの兄弟の関わりを 巡る一切のことの意味が良くもなり悪くもなるのです。ヨセフの信仰が兄たち
を赦し、兄たちの生きる道を拓いたのです。
「恩讐を越えて」という言葉は、今までを振り返れば、良いことも良くない こともあった。喜びも苦しみも、恩義を感じるような嬉しいことも、憎しみに
満たされるようなひどいこともあった。しかし、いろいろあったけれども、今、 一切は問題ではないと言うのです。日本人なら、全てを水に流すというのでし
ょうか。しかし、聖書は、神様の導き、摂理を思い、人が歩んできたことを振 り返る時、信仰により何を思うのかということを問うのです。この世に神のみ
こころが現わされていく、その中に、自分があり、今までのことがあり、今こ れからのことがあるというのです。神のことを思うから、ヨセフは人を赦すこ
とができたのだと思います。
兄たちは口裏を合わせて自分たちのやりたいようになしましたが、人の思い が現わされますが、しかし、神様のみ心、導きこそが実現していくのです。こ
の世界を導く神様が、世界を救いへと導かれています。その中に、私たち生き ている、導かれているのです。
「ヨセフ」という名前の意味は何でしょうか。「加えられた者」という意味 です。ですから、ヨセフは名を名乗ることによって、「私はヨセフです。神様
が加えた者です。」と言っているのです。
神様はヨセフをヤコブの家族に加えました。この生意気な少年は、家族には 耐えられないほどのお荷物となりました。けれど、このヨセフこそが、家族を
救いへと導くために、なくてはならない存在でした。神様によって加えられた という名前のこの人が、人の思いがうごめく中に、神様のみ心を加えることを
しています。この人によって、人々は神様のみ心を悟るのです。どんなことが あっても、神様は救いへと導いてくださるということを知るのです。
ヨセフ物語の最後、創世記の最後に目を向けますと、そこには死を真直にし たヨセフの家族への遺言が記されています。「25 ヨセフはイスラエルの息子た
ちにこう言って誓わせた。「神は、必ずあなたたちを顧みてくださいます。そ のときには、わたしの骨をここから携えて上ってください。」ヨセフは、死ん
でから故郷に帰ることを希望し、それは必ず実現すると信じています。
創世記の初めに書かれているように、神様はこの世界をお造りになりました。 そして、創世記は、神様がこの世界をお造りになったと信じる人々は、神様の
導き、摂理を信じる人たちであるということを最後の言葉として記しています。 創世記は、神様による世界の始まりを告げ、さらに未来に向かっていく信仰を
表して、それを最後の言葉、まとめとしています。信仰によって、私たちの目 を未来へと向けるように呼び掛けています。この世界の中ではいろいろありま
すが、しかし必ず神様が未来を拓いてくださると信じるように招いています。
「御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くとい うことを、わたしたちは知っています。」(ローマ8:28)
「家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。これは、主がなさ ったことで、/わたしたちの目には不思議に見える。」(マタイ21:42)
神がイエス様をこの世に与え、救いへと導いてくださっています。
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