ヨハネ福音書はクリスマスの出来事を、「言は肉となって、わたしたちの間 に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光で
あって、恵みと真理とに満ちていた。」と言っています。
クリスマスに、神の子は人の姿をしてこの世にお生まれになりました。ここ に、神様のなさるとても驚くべき奇跡が起こりました。神様が人になる。この
ことは私たちの理解を超えていることですが、神様はそのようにできたし、そ のようになさったのです。どうしてでしょうか。この世を愛しておられるから
です。神は独り子をこの世に遣わし、この世のこと、私たち人間のことを、そ の目で見て、その耳で聞いて、私たちの生きているこの世のことを身をもって
知るようになさいました。神様と私たちは、関わりのない、離れ離れではない のです。
「宿る」とは、ずっと一つ所にいるということです。神様は、私たちの生き ているこの世に大きな思いを向けられ、とても深く愛しておられます。イエス 様は十字架にかかった後よみがえり、目には見えませんがいつも私たちと共に おられます。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」とても嬉しいこ と、心強いことです。
さらに、私たちの間に宿られた神の御子イエス様の「栄光」を見たと言いま す。これは、何のことでしょうか。11章には、イエスの友であったラザロが
死ぬような病気になったことが知らされた時、イエスは「この病気は死で終わ るものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受ける
のである。」と言われました。ラザロのよみがえりを見た人々が、イエスの御 力に驚き、神を讃えるようになる。そのように、イエス様が神の愛に溢れた素
晴らしい御業、栄光を示すのだと言うのです。さらには、「人の子が栄光を受 ける時が来た。 はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、
一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」イエス様が十字架にか かり永遠の命をもたらすことが、神の栄光を表わすことだと言うのです。
ヨハネ福音書の中でイエス様は、「わたしは父のもとで見たことを語ってい る」と繰り返し訴えておられます。イエス様が神様のみもとで見たこと、神様
の愛、神様の素晴らしさ、神の栄光について話しているのに、ユダヤ人は全く のまやかしであると言って、誰も本気で聞こうとしないのです。イエス様は一
人の人となり、この世にある私たちを救いに招くために、神様のみ心をこの世 の人に伝えているのです。
神様とこの世を、神様と私たちをつなごうとされているのです。イエス様は 嘘ばかり話しているというユダヤの人々に、心を開いてイエス様の話を信じて
ほしいのです。イエス様は信じることへ招いているのです。この世の人々が求 めないのに、神様はイエス様をこの世に与えて、神様の方からこの世へ、私達
へと近づいてくださいました。神様のみ心へ、慈しみへ、救われた命へ、神様 の方から招いてくださっているのです。
神の御子イエス様がこの世に誕生した。この出来事は、神様が私たちに近づ いてくださり、罪多いこの世に愛を向けてくださり、神様の大きな御手の内に
守り養っていきたいという思いの表れです。
今年の漢字は、「戦」。ロシアとウクライナの戦い、そして、この世界に生き ている一人ひとりの人生の戦いが、今もこの世界に繰り広げられています。人
と人との関わりは厳しく難しいのです。つながれないのです。
けれども、今日も、そしていつまでも、神様はこの世界の一人ひとりに近づ かれて、手を差し伸べておられます。「私はあなたの仲間です。あなたのこと
が大好きです。あなたが生きていることがとても嬉しいです。私と一緒に生き ていきましょう。」神様の慈しみに満ちた声が、イエス様のお生まれになった
馬小屋に、この世界中に響いています。
イエス様をお迎えした私たちが、神様の御手の内に守られていること、神様 の愛の中に包まれていることを信じて、隣の人と手をつないでいくことができ るなら、神様はとても喜んでくださいます。馬小屋にお生まれになったイエス 様の周りに集まって、神様からの愛と恵みに励まされ慰められて過ごしていき たいと思います。
|