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シロアム教会 礼拝説教要旨集
2020年12月 6日 13日 20日 27日 目次に戻る
 2020年12月20日 
「主の足もとにこそ」加藤誠牧師
マルコによる福音書7章24−30節



 ヨハネによる福音書は西暦90年頃に記されたと考えられている。ローマ帝国からの独立を図ったユダヤ人たちは、帝国の反撃を受けエルサレムは包囲された挙句神殿は破壊される。70年の事である。各地に散らされながらも経済的な影響力を持つユダヤ人にとって、生まれたてのキリストの教会は、使徒言行録を読むと分かるように、その存在は受け入れがたいものであった。ローマ帝国もキリスト教に対しては、迫害や弾圧を加えた。キリスト者にとっては暗い時代が続く中、ヨハネは筆を執る。「光は暗闇の中で輝いている」ことを伝えるために。



 1節から5節まで日本語の聖書では時制は一か所を除いて全て過去形である。確かにキリストがイエスとしてこの世に来られたのは2000年前の過去である。人間を照らす命の光としてこの世に来られた、とヨハネは語る。しかし一か所「光は暗闇の中で輝いている」と宣言することによって、キリストが私たちの命であり光としてこの世に来られたことが現在に繋がる。たとえ暗闇と思えるような時代が続こうとも、主イエスの光は暗闇の中で輝く。そこにこそ私たちの希望がある。



 最近友人の牧師が、病院の主治医に牧師であることを看護師や薬剤師に公表されたとぼやいていた。さっそく薬剤師から「○○さんは牧師だから心が清らかなんですね」と言われたからである。「清らかじゃないからイエス様が必要なんです」と心でつぶやきながら逃走したとの事である。

 自分の心が清らかどころか、暗闇に飲み込まれそうな経験を私たちはするかもしれない。しかし、「光は暗闇の中で輝いている」。
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 2020年12月13日 
「呼びかける声」加藤豊子牧師
イザヤ書40章1−5節



 今年の信徒の友12月号の特集は「クリスマス、メサイアを聴こう」とありました。メサイアとはメシア、救い主のことを意味します。クリスマスによく演奏されるこの楽曲は、オラトリオと言って宗教的な主題をもったオペラです。メシア、救い主が与えられるという旧約聖書の預言の言葉に始まり、主イエス・キリストの誕生、十字架、復活が歌われていて、全曲聴くと、2時間半かかる大曲です。このメサイアの一番最初に歌われる言葉が、今日の聖書箇所イザヤ書40章1節以下の御言葉です。テノールの独唱で「慰めよ」英語で「comfort ye」と優しく歌い出されます。



 紀元前5世紀、イエス・キリストの誕生から500年以上前の事。イスラエルの国は北と南に分かれていました。そして北はアッシリア帝国に、南はバビロンによって滅ぼされ、一部の人々はバビロンという遠い国に連れて行かれました。所謂「バビロン捕囚」という出来事が起こり、その期間は50年にも及びました。「慰めよ、わたしの民を慰めよとあなたたちの神は言われる」(40:1)という言葉は、50年という捕囚の最後の頃に、預言者イザヤによって語られた神の言葉です。自分たちは神に見捨てられたのではないか、そう嘆く人々に神からの慰めが語られています。



 この慰めの言葉は、捕囚の民だけではなく、わたしたち一人一人に対しても与えられています。聖書のいう「慰め」は、つらい時にわたしたちの心情を慰めてくれるというようなものではなく、もっとわたしたちに内的な強さを与えるものです。クリスマス、イエス・キリストが来られたことによって、わたしたちはしっかりと立つべき土台を得ました。どのような苦しみ、悲しみの嵐の中でも揺るぐことのない土台、イエス・キリストこそ、わたしたちにとって真の慰めです。
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 2020年12月6日 
「汚れた手の問題」加藤誠牧師
マルコによる福音書7章1−9節



 ファリサイ派の人々と数人の律法学者がわざわざエルサレムから恐らくはカファルナウムにいたであろう主イエスを訪ねてやってきた。彼らの教義からすれば手を洗わないことは、衛生上の問題ではなく神の前での汚れの問題であった。早速クレームをつけた彼らに主イエスは一見すると過剰に思えるくらいに断罪する。そうこれは主イエスの怒りのこもった断罪である。



 ユダヤ教には人間の言い伝えが数多くある。彼らはその権威である。しかしエリートを自負する人間ほど、神の権威より自分の解釈を上に持ってくる鼻持ちならない人間になる可能性がある。「あなたがたは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである。」との主イエスの言葉は、ファリサイ派や律法学者だけに向けられたものではない、神の言葉を解き明かす全ての牧師、神父、神学者、役員に向けられていることを自覚すべきである。



 当時はコルバンという制度があったらしい。親からも受け継いだ遺産、財産を神殿にささげれば、関係の悪くなった親を敬う(支える)必要がない、というのが人の作った制度であった。神の言葉を自分の都合の良いように解釈し、しかもそこに神の権威まで味方にしている。主イエスの目からすれば手を洗わない弟子を批判する権利を彼らは持たない。そのことに気づきもしない彼らに対して主は怒るのである。



 14節からは何が人を汚すのかが問題にされている。結論は「人の心から出て来るものこそ、人を汚す」(20節)である。勿論、聖書は人の心に愛や友情、信頼など大切な人を生かす要素があることを否定しはしない。しかし人の心から出て来る「汚れ」のしたたかさに、私たちは注意を払わねばならない。何故ならば人と人との関係、神と人との関係を壊す力を持っているからである。
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