2003,02.22
【母の生い立ちと救い】
私の両親は、耳が聞こえませんでした。すでに母は天に召されましたが、父は健在です。二人とも私が生まれる前からクリスチャンです。私はクリスチャンホームで育ちました。最初にクリスチャンになったのは、私の母でした。私の母は、4人兄弟の長女で一人だけ耳が聞こえないという障害者だったため、実の母から大変いじめられて育ちました。家族に障害者がいるだけで何かと差別される時代でした。その母は、私の母が14歳の時に亡くなりましたが、今度は父親が母をいじめました。下の二人の妹に対しては、欲しいものがあれば買ってあげる、服がちょっとでも破れたら新しい物を買ってあげるのに、私の母には何も買ってあげないという状態でした。
当時の写真を見せてもらった事がありますが、妹達は良い服を着ていましたが、母は継ぎ当ての服を着ていました。
母は、小さい頃から体が弱く(肺を患っていた)、何年も入院したり聾学校を1年休学したりしたため、やっと元気になって学校に戻りますと自分の同級生だった人が卒業して、年下の後輩達と机を並べて勉強したそうです。聾学校卒業後は、貧しい家庭を助けたいのと、将来結婚した時の必要のために、得意だった裁縫、編物の仕事をしながら少しずつお金を貯めていきました。(僕らのセーターもお揃いでいつも編んでくれていました)
このように苦しみの中にある時、クリスチャンだった母の兄が、母を横須賀の教会に連れて行ったのです。(母は横須賀生まれの横須賀育ちです)
しかし、当時は手話通訳者がいないため耳の不自由な母にとって教会は退屈でした。それでもその兄は母の手を引いて毎週教会に連れて行きました。
そして、ついにこのみことばが母の心を強くとらえ救われたのです。
「神は、実にそのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。
それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、
永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)
「たとえ親から厄介者扱いされ、いじめられても、天の父なる神さまは、
私のことを愛してくださっている」母は初めて神の存在と神の愛を知りました。当時の写真を見ると、クリスチャンになる前の母は暗い顔をしていましたが、イエス・キリストを信じた後は本当に輝いた顔をしていました。
【建て上げた聾唖者の教会】
やがて母は、ある方の紹介で同じく耳の不自由な新潟に住む父と出会い、遠距離恋愛(横須賀⇔新潟)の末結婚し、スプーン工場で働く父の元にやって来ました。そして、私達が生まれたのです。母は、一時期信仰から離れていたようですが、結婚直後、信仰を回復し、その時父に福音を伝え、父もクリスチャンになり、ここからクリスチャンホームの祝福が始まりました。しかし、新潟では手話通訳をする教会がなく、「聾唖者が集える教会を与えてください」と祈った所、数週間後に若い聾唖者の男性が自宅を訪ねて来ました。「私は、東洋ロ−ア・キリスト伝道教会の伝道師で鷲尾と言います」
この教会は、牧師も信徒もすべて聾唖者で、耳の不自由な方々に福音を伝えるというグループです。「どうして我が家に来られたのですか」と聞きますと、「新潟に住む聾唖者の方々に伝道しようと重荷を持って来たのですが、聾唖者がどこに住んでいるかわからないので、燕市の市役所に行って、どなたでも結構ですから聾唖者の方の住所を教えて下さいと言って、紹介されて来ました。私は伝道者です。イエス様を信じませんか」と言うので、「私たちはクリスチャンです。聾唖者が礼拝できる教会を求めて祈ってきたのです」と答えたので、お互いにびっくりしました。本当に神様の恵みだと思います。
そして、早速我が家を開放して礼拝が始まりました。近所に父の聾学校時代の友人とか先輩がたくさん住んでいましたので、「日曜日に私の家に来てください。イエス様の福音を伝えることができます」とお誘いしました。たくさんの聾唖者の方々が集まってきてどんどん救われていきました。それが今の『東洋ローアキリスト伝道教会』新潟教区の基礎となったのです。
今でも何年か振りに帰ると、たくさんの聾唖者の方々が集まって主を礼拝しておられるのを見て、とても嬉しく思いました。私の両親が一粒の麦となって始まった集会が、神様によって祝福されていると言う姿を見ることができて本当に感謝でした。
【コップの奇跡】
両親が、昔の(クリスチャンになる前)父の聾唖者の酒飲み友達宅を訪問し伝道していた時、不思議なことが起こりました。友人は「神などいない。いるなら、どうして俺の耳を治さないんだ」と反発し、「神の話しなどいいからさあ酒を飲もう」と台所から一升瓶とコップを二つ持って来て父の前にコップを置きました。「イエス様を信じたら酒などに頼る必要はない、悲しみを酒で紛らわす必要などない、喜びが溢れて来るんだから、そんな酒はいらない」と断る父を無視し友人がコップに酒をついだ瞬間、そのコップは割れました。皆がびっくりしました。父は、「神様がこの場にいてくださる。だから酒を飲んだりしないで私の話しを聞いて欲しい」と言いますと「なに、ヒビが入っていただけだよ、古かったからな」と言って今度は別のコップを持って来て、充分点検した後、酒をつぎました。その瞬間、またコップが割れました。彼は青ざめました。
父は言いました「神は生きておられる」。彼は信じません。「偶然だよ」と三つ目のコップを持って来て、今度は自分の奥さんにも点検させ、それから酒をつぎました。またもコップは見事に割れました。神様は、そこにいてくださいました。彼はびっくりしていましたが、その時両親は福音を伝えました。彼らはその日、夫婦そろってイエス様を信じて救われたのです。
こうして神様は、両親の伝道を助けてくださいました。
「そこで、彼らは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。
主は彼らとともに働き、みことばに伴うしるしをもって、みことばを確かなものとされた。」(マルコ16:20)
【母が教えてくれた神の愛】
私が小学校の1年生になったばかりの頃だと思います。兄の自転車を買いに母と兄が出かけて、一人で留守番をしていました。暑い夏で、アイスを食べたいと思い冷蔵庫を開けて見たのですが、アイスは入っていませんでした。
私のお小遣いは、10円でした。10円といっても当時棒に付いたアイスキャンデーが10円で買えたのです。そのお小遣いを今日はもらっていなかったので、母達が帰って来るまでアイスが欲しくとも食べられないのです。あーアイスが食べたいなあ、と思っていたら、 ふっとタンスの一番上の引出しに、母の小銭入れが入っていて、その中には10円玉や5円玉がたくさん入っているのを見た事があるのを思い出し、椅子の上に登って見ると、やはり小銭入れがあり、中には10円玉がいっぱいありました。私としては宝くじにでも当たった気分です。
1枚位なら気付かないだろうと10円玉1枚だけ盗って、近くの駄菓子屋さんに走りました。アイスキャンデーを買ってきてペロペロ食べました。「あーおいしい!」普段なら一日1本なのですが、その日に限ってもう1本食べたいなという思いがやって来ました。外では蝉がミーンミーンと鳴いていて余計に熱さを誘います。「もう1本だ、もう1本だ」と聞こえて来るのです、またも母の財布から10円玉を盗んで駄菓子屋さんに走って行きました。駄菓子屋さんのおばちゃんがびっくりして「どうしたの?また買いに来たの?」と聞きましたが、「お兄ちゃんの分」と言って、買って家に帰って食べました。
「あーおいしかった」と満足しました。すると、外ではまた蝉が鳴いています。又しても「もう1本、もう1本」と聞こえます。さすがに3本も食べたらお腹をこわすとは思いましたが、もう1本食べたい、こういうチャンスはめったにないなあと思って、母の財布からまた10円を盗み、駄菓子屋さんに走りました。
駄菓子屋さんのおばちゃんは、またびっくりしましたが、「お母さんの分」と言って買って家に帰りました。食べた時はすごく幸せな気分でしたが、しばらくしたら恐怖が来ました。誰かが見ているのを感じました。窓の外を見ても、隣りの部屋を見ても、トイレを覗いても、台所にいっても誰もいません。「誰もいないから大丈夫だよ」と自分に言い聞かせるのですが、誰かが見ていると言うのを否定できないのです。私は思い出しました。イエス様が見ているのを。実は小さい頃から母にずーっと教わって来ました。「イエス様はいつも和夫と一緒にいてくださるのよ、和夫のこといつも見ていてくださるのよ」と。「でも僕が布団の中にもぐったらイエス様だって見えないよ」と質問しました。母が言いました「布団にもぐったってイエス様には見えるのよ」。「じゃ押し入れの中に隠れたら?」 と言ったら「押し入れに隠れてもイエス様にはちゃんと見えてるのよ。和夫の心の中もイエス様はちゃんと見ておられるのよ」と聞いていたのに、どうしてこんなことをしてしまったんだろう。その時もうどうしようもないと思って、「神様ごめんなさい」と涙ながらに悔い改めました。お母さんにも正直に謝ろうと思いました。
当時の家は、玄関の前に襖があったのですが、その前に正座して「きっと叩かれるだろうな、今晩はご飯抜きかな…」と、泣きながら母の帰って来るのを待っていました。やがて、母が帰って来ました。襖がすうっと開いて、母は何やってんの?と言った顔をしていました。「お母さんごめんなさい。お母さんの財布から30円盗んで3本もアイスを買ってしまいました」テーブルの上には3本の棒が残っています。母は、それにふっと目をやってしばらく考えていたようでした。「お母さんごめんなさい」ともう一度頭を下げますと、母はすうっとそばにやって来ました。「ああ叩かれる」と思い、どっちから叩かれても良いように歯を食いしばっていました。やがて母の手は私の頭を撫でてくれていました。ことばでも手話でもありませんが、母は、「自分が悪い事をしたので、神様の前に罪を悔い改めてお母さんにも悔い改めているんだね。良く正直に言ってくれたね。二度としてはいけないよ」と言う目でした。
聖書にある、ペテロがイエス様の事を三度知らないといった時に、イエス様が振り向いてペテロを見つめられた時、イエス様はああいう目をしていたのではないかと思います。母は、何も言わず私を赦してくれました。この時、兄もそばにいたのですが、何も覚えていないそうです。母は、父にも言わなかったようです。去年の礼拝でこの証しをした後に、父に聞いたら「何にも聞いていない。そんな事があったのを初めて聞いた」と言っていました。
神様は「あなたの罪はゆるされた」と宣言されたら、何年かした後に「おまえあの時こんな罪を犯したな」とは決して言いません。イエス様の愛は、
たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くしてくださいます。
(イザヤ書1:18)
イエス様は、赦すと言った瞬間からその罪をまるでなかったかのようにしてくださるのだと言う事を、母は30年経ってから(亡くなって15年になりますが)私に信仰を通して励ましを与えてくれました。当時6歳だった子供に何がわかるだろうと思ったかもしれません。でも、たとえ今はわからなくともやがてクリスチャンになった時、この事を思い出して欲しい。そして神様の愛がどんなに素晴らしいものかを忘れないで欲しい。というメッセージを残してくれたのだと思います。
【祈りが怒りへ、復讐を決意する】
このように恵まれた中にいながら、神様の赦しを体験しながらも、小学校に上がり友達も増えて「親友だよな」と言いながら肩を抱き合って一緒に帰った友達も、ささいな事でけんかになると、私の両親の障害をののしりました。私は、両親の事を大好きでしたから突っ掛かっていくのですが学校一小さかったため、弾き飛ばされ身体中泥だらけ、傷だらけになって泣いて家に帰りました。「どうしたの」と言う母に説明しました。母は「和夫はイエス様の事を知ってるでしょう。人の悪い事を言うのは罪だって言う事が分かるでしょう。イエス様が和夫を赦してくださったように、和夫もお友達を赦してあげなさい」といつも言いました。
最初は、友達を赦そうと必死でこらえて頑張りましたが、2、3、…50回も続いたら、もう赦せない、神様は何もしてくれないのかなと思いました。
それから私は、毎晩祈るようになりました。両親や兄にバレないように布団にもぐって「僕のお父さんとお母さんの耳を聞こえるようにしてください」と何ヶ月も祈りました。しかし、いやされません。神はだまって見ているだけで、僕ら家族のためには何もしてくれない。と思い、やがて祈りは怒りに変わりました。「おまえが神なら、両親の耳を聞こえるようにしてみせろ」と言い、私の怒りは全て神様に向けられ、ついに信仰を捨てました。
神が何もしないのなら、私がこの手で復讐してやる。私は強くなりたいと思い、小学校3年生の時にちょうど家族で東京に引っ越したのを機に、兄、友達と3人で空手道場に入門しました。しかし、プロレスの好きな友達が、道場で次は初段になるという一番強い男を四ノ字固めで泣かせてしまったのを機に、この道場では、強くなれそうもないとわかり辞めました。次は、柔道を始めました。頑張って1年後には、八王子市の大会であと一人倒せば3位に入賞できると言う所まできましたが、判定で負けてしまいました。もっと強くなりたいと稽古し、三多摩の試合に出ましたが1回戦で負けてしまいました。
どうして負けたのだろうと他の人の試合を見ていると、体の大きな人が有だというのが分かりました。中学1年生の時、極真空手が来た事を知り、すぐに飛び付きました。
極真空手は、殴る蹴る、実際に相手が倒れるまで闘うけんか空手と言われるものです。そこで、尊敬できる師範に会いました。努力の人で人間的にも優れていると言われるその師範が私の神様となり、私の目標となりました。「オレはこういう強い男になりたい」「こういう人間になりたい」と心から願いました。ところが、ある日新聞を見ていたらその師範が写真入で、でかでかと恐喝罪で逮捕と出ていました。私は信じられませんでした。何も信じられなくなった私は絶望の中に落とされたのです。
【悔い改めそして赦し】
そんな時、私は机の引出しを開けました。その奥から小さな豆カードとトラクトが出てきました。そのカードにはこう書かれていました。
「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」
(ローマ書9:33)
私はショックを受けました。イエス・キリストに信頼する者は、失望させられることがない。なんと力強く、確信に満ちているのだろうか。両親から聞いていたものと違う何か力強いものを感じました。この豆カードとトラクトは、小学校5年生の時に兄の友達(不良でしたが私の両親の障害を悪く言いませんでした)から、八王子のみつい台に外人のおばあさんがいるから会いに行こうと誘われて行った、そのおばあさんからいただいたものです。引退した宣教師でした。聖書を読んでみようかなと思い、裏に無料の聖書通信講座があったので、早速申し込みました。その学びで『罪』というテーマに来た時に、ここに書かれているのが自分だと言うのが本当に分かりました。今までは、自分の両親を悪く言ったあの友達が罪人だ、自分は悪くない正義なんだと思っていました。神様に向かって「おまえが神なら…」とののしり、信仰を捨て自分勝手に歩みはじめました。
私は、イエス様が十字架にかけられた時、両脇にいた強盗の一人と一緒でした。この私がイエス様を十字架にかけたのだ、この手で釘を打ち込み、脇腹を槍で突き刺し、いばらの冠を被せたのだ。その時初めて神様がいかに自分を愛してくれているかがわかりました。イエス様に心から悔い改め、クリスチャン・ホ−ムの子供にすぎなかった者から、ひとりのクリスチャンへと変えられました。中学2年の終わり頃の事でした。私に悪く言った友達を赦したいと新潟に帰りました。友達はその事をすっかり忘れていましたが、「私はイエス様を信じた。昔、君からそう言われたけれど君を赦します」と言って聖書とトラクトを渡しました。彼はポカンとした顔をしていましたが、聖書を読んで欲しい、そして彼が救われるようにと今でも祈っています。
【夢で示された親の愛】
私は年に何回か同じ夢を見ました。知らない人に私がおんぶされて走っているのです。後ろを振り向くと当時住んでいた家がだんだん遠のいて行くのです。僕は誘拐されているんだと夢の中で思いました。誰に誘拐されているのだろうと顔を覗き込んでも真っ暗で男か女かも分かりません。ふっと前を見ると兄もその人に抱っこされているのです。兄がいるから大丈夫なんだなと思っていつもそこで目が覚めました。私がクリスチャンになってしばらくした後、「実は昔、こんな事があったんだよ」と母が教えてくれました。私達が結婚して二人が生まれた頃、父の実家の人達が来て「おまえ達に育てられるわけが無いから実家に預けなさい。子供が夜鳴きをしたっておまえ達は知らないでグースカ寝てるじゃないか、夜中にオッパイが欲しくて泣いたっておまえ達起きれるのか、子供達にどうやってことばを教えるんだ。ことばを教えるのは親の務めだぞ、それが満足にできないおまえ達に子供を育てる資格は無い。
子供が大きくなってことばを話せるようになったらこれがおまえ達の両親だぞと必ず返すから」と約束しました。しかし、母と父は拒みました。父の実家は大きな仏壇があって熱心な仏教徒です。いとこも皆、仏前結婚でした。実家に預けたら絶対にイエス様を信じない子供になる。それどころか偶像礼拝者になってしまう、確かに私たちにはこの子供たちに言葉を教えてあげられないけれどもイエス様が助けてくださる、と信じて拒んだのです。しかし、いつもより多くの人数が来て今日こそは力ずくでも連れて帰ると言った時に、両親は手話で会話し「お父さんは彼らを説得していてください。その間に私が信夫と和夫を連れて裏口から逃げます」
父は、母が病弱で医者から激しい運動をしてはいけないと言われていたので心配しました。「そんな事をしたらお前の体はどうなる?」「私の体は大丈夫です。イエス様が守ってくださいます」と言って、母は幼い私たち二人を連れて何キロも走って逃げたのです。その事を実家の人達は後で知り、引き取る話はなくなりました。神は何にもしてくれないと思っていましたが、このように素敵な両親を与えてくださっていたのです。この事を知った時、神様への感謝で涙が溢れて止まりませんでした。その晩夢を見ました。いつもの夢です。私の家が遠のいて行きます。前に兄がいて私をおぶったその人は必死に走っています。その人の顔を覗きました。そこには苦しそうにしている母の顔がありました。はじめてそれが母だという事がわかりました。
神様は、「お前はこんなに愛されているのだよ、両親の信仰によって支えられて育ってきたのだよ、忘れるなよ」と言う事をまだ小さな内に記憶に残してくださったのだと思います。私は、神様に感謝しました。
【母は透析室の伝道者】
15年前(1987年5月6日)母は、天に召されていきました。腎臓が悪くて人口透析をしていました。治すには腎臓移植しかありません。それをしたいと思いましたが、父も兄も私も血液型はA型です。母だけがO型で、移植はできないと言われました。母に「腎臓移植の申し込みをする?」と聞いたら、「神様がこんなにも愛してくださっていると言うのに、これ以上何を求める事ができるの、私の他にどなたかが移植できたら良いと思う」と言っていました。人口透析をしていると手がむくんできます。好きなだけ水を飲む事もできません。たとえば一日コップ一杯位です。暑い時、私達はお茶を飲んだり冷たい物を飲みますが、母にはそれができません。夜中に母の足音が聞こえました。
冷蔵庫を開けて氷を一つ口に入れてベットに戻るのです。そんな音を何度も聞きました。水を好きなだけ飲ませてあげたいと思いましたが私達にはそれはできませんでした。母は、透析室に伝道者として遣わされて行きました。
看護婦さんが「武藤さん、どうしていつもそんなにニコニコしていられるの?」と聞くと「イエス様によってこの喜びが与えられているのですよ」と言って聖書を持って行きました。聖書を見せて「ここ読んで、ここ読んで」とヨハネ3:16を示していました。母は、6人部屋に入院しましたが、その一番奥にいるおばあちゃんが恐い顔をして私をにらむのです。私達が手話で会話していますから、変な人が来たなと思ったのでしょう。「お母さん大丈夫かな」と言いましたが、母は「心配いらないよ」と言ってました。2〜3日して病院に行ってみると、母がベットにいないのです。何と窓際の一番恐そうなおばあちゃんの傍で折り鶴を折っていました。それをおばあちゃんに渡すと、おばあちゃんが本当に嬉しそうな顔をしてニコニコしているのです。
私は「あのおばあちゃんでも笑うんだな」と思いました。それほど気難しそうな怖いおばあちゃんでしたから。一週間経って母が退院する時に、病室の人達は「武藤さんがいなくなると寂しい、また遊びにきてね」と言うのです。そしてあのおばあちゃんは母の手をいつまでも離そうとはしませんでした。人はこんなにも変えられるのだろうか。母は、母の内にあるキリストの愛、喜びをその方達に伝え切ったのだと思います。
【母の思い、そして今の私達、驚くべき神の愛】
母の召天後、次男の特権?で、母の聖書を使って朝のデボーションをするようになりました。あまり書き込みがないのですが、初めてアンダーラインの引いてある個所がありました。「盲人が見、足なえが歩き、らい病人がきよめられ、つんぼの人が聞こえ、死人が生き返り、貧しい者には福音が宣べ伝えられているのです。」
(マタイ11:15)
私から見ると、母は障害者であること、病気であることを全然苦しんでいないように見えましたが、実は誰よりも耳が聞こえるようになりたいと思っていたのでしょう。礼拝で語られる牧師さんのメッセージを自分の耳で聞きたい、皆と一緒に言葉をもって神様を賛美したい、そして親なら誰だって自分の子供達の声を聞きたいと思うでしょう。でも母は神様に愚痴を一言も言わずに、むしろ最後までその口には感謝が溢れたまま、天国へと召されていきました…。
あの時「しゃべれない子になったらどうする」と言われた長男は、こうして手話通訳をして、毎週日曜日2回の礼拝で牧師さんの語るメッセージを聞いて、耳の聞こえない方々に福音を伝えています。あの時「しゃべれない子になったらどうする」と言われた次男坊(私)は、今はワーシップチームでこの唇を通して神様をほめたたえ、教会学校の中高生達を前に、言葉をもって神様の愛を伝えています。ある方々は言うでしょう。「聾唖者の家庭に育った子供だろうと話せる人たちはたくさんいますよ」と。でも、イエス様を信じた私と私の家族にとっては、これは『驚くほど大きな神様の愛』なのです!
今日、皆さんとご一緒に、この神様の大きな愛についてわかち合えた事を心から感謝します。ありがとうございました。
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上記の内容は、御本人の許可を得て掲載させて頂きました。これからも、『あかしのページ』で、神様の素晴らしい御業を御紹介していきたいと願っています。全ての栄光が主にありますように! 感謝! by みかりん
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