どうにかこうにか自分の言いたいことは表現できるようになった頃、手話サ−クル内の活動が忙しくなってきた。それでも、まだまだ学ぶことがたくさんあり、色々な場所に積極的に出ていっては手話表現を吸収し続けた。地域のろう者とも交流が盛んになり、毎日忙しいながらも充実した日々だった。....と、神様がコマをひとつ進めた。一般の手話表現はどうにか学べるが、教会用語は?聖書の手話表現方法は?....と考えていたある日のこと。パラパラとめくった本に「アバコ手話教室の案内.......クリスチャンの為の手話教室」その本を手に持ったまま、片方の手が受話器を握りしめていた。なんと、手話教室開催まであと1ヶ月。申し込みがスムーズに進んで受話器を戻すと手が震えていた。「神様があのドアをまた開いた」そう確信した。 |
「誰も理解してくれない、助けてくれない。何で自分一人がこんなことを....」 |
自分の弱さを認め、主にゆだねた時、教会内で助け手が与えられた。共に重荷を担ってくれる教友がいた。すると、固まっていた石のようなものが少しずつ溶け始めた。「助けてください」と言わなかったから、人は気がつかなかったのではなく、「全部自分のモノ、人にはあげるものか」そんな心が自分を締め付けていたのだと気がついた。まったく、我ながら傲慢な者だと呆れ果てた。「休むことも大切」難聴者信徒の会で言われたこの言葉を心でくり返した。たくさんのものを勝手に握りしめていただけ、なんてことはない、手放したらスーっと楽になったではないか。元の自分が戻ってきた、そんな時、次のドアが開けられた。FAXが届いた。『手話通訳者の修養会案内』感謝して申し込んだ。 |
話は前後するが、自分と同じ立場で教会内で手話通訳を行っている人が必ずいるはず、と思いインターネットで情報を探し求めた。一般の手話通訳者関係や、ろう者に関する情報はあるものの、クリスチン手話通訳者のページは探したけれど見つからなかった。教会でその話をした時、「なかったら自分で作れば?」と言われた。自慢ではないが、パソコンはほんの少しいじる程度の私、機械オンチ、解説書オンチついでに方向オンチ(これは関係ないが)。 |
次々に難問にぶつかりながらも、ひたすら耐えに耐えて根気強く教えて頂き、あまりに飲み込みの悪い私を最後まで見捨てずに教えてくれ、助けてくれた 現在、手話を始めて10年が経とうとしている。あっという間の10年だったが、振り返ると実にいろいろな事があった。神様の導きと、たくさんの人々に支えられてきたんだな〜と思う。 手話を学んで来て分かって来た事、それは、人は互いに支え合うものだという事。手話の技術云々は、地域の手話サークルで磨き合って頂きたい。 主に在る兄弟姉妹として手話が果たす役割は、神様の恵みを分ち合う為に与えられた一つの手段であろう。礼拝にて、御言葉を通訳させて頂く時、御言葉が通訳者の心と体を通って行き、ろう者の心につながった時、さらに恵みを受けることができる。2倍の恵み。これって、かなり役得である。神様の尊い働きに加えられていることを感謝しつつ、「もういいよ」のお声がかかる時まで、この恵みに与りたいと願っている今日この頃である。 そして今、教会の中で奮闘している一人でも多くの方に、このサ−クルを知って頂きたいそして、聞こえない方が救いに導かれるように、このHPが用いられることを祈り続けたいと思う。全ての栄光は主にあり。 アーメン みかりんでした(^^) 2005,8,2 |