序 ゴスペルサインランゲージサークルのプロフィール
昔話 2000・3 作成
Part 1 サークルのこと 2000・2・
2 作成
Part 2 クリスチャン新聞掲載内容訂正 2000・2・10 作成
Part 3 手話通訳って??? 2000・2・20 作成
Part 4 変化 2000・5・10 作成
Part 5 手話讃美について思う事 2000・5・15 作成
Part 6 手話を学ぶのは何のため? 2000・7・15 作成
Part 7 手話歴10年 2005・8・5 作成
Part 8 頚肩腕障害 2010・2・13 作成
Part 9 シロアム手話協力会 2010・2・20 作成
Part 10 よきサマリヤ人 2010・2・25 作成
Part 10 病いにあったことは・・・ 2010・2・25 作成
手話とわたし |
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さてさて......何から始めよう。ここまで読み進めて下さった方は、Part1〜6迄と、昔話の作成日から5年の月日が経過していることに気づかれた事だろう。Part,1の中で「10年手話通訳を経験して初めて通訳者と言える」と聞いた事について述べてある。だから、実際10年経過した今、どんなモノかと自分を振り返ってみる。
何がどうなったか?身辺の環境はそれなりに変化したけれど、手話や、ろう者に関して思う事は、5年前に記した時と何ら変わりないように思う。一週間に2〜3回位礼拝や集会にて奉仕してはいるものの、手話の技術は...たいしたもんじゃないし、相変わらず手話の読み取りは苦手なまま。現在、教会での通訳は、100%日本語対応手話を求められているので、日本手話風表現はすっかりなりを潜めている状態である。大きな声では言えないが、手話訳聖書ビデオを見ると少なからず影響を受けてしまい、シムコムの通訳方法が乱れてしまう為、キャビネットにしまい込んで久しい。ろう者の友人からは、「どちらも出来るように勉強が必要」と叱咤激励されている状態である。コンサートの通訳では、早口のゲストに毎回閉口している有様。時々、初めて手話通訳を目にされた人からは「お上手ね〜」なんて言われるが、当の本人はまるで人ごとのように聞いて流している。謙遜でも何でもなくて、未熟さを熟知している所以である。
な〜んだ。結局あまり変化してない。でも、変わらないのは、友人との交流。主に在る兄弟姉妹との交わりと恵みの分かち合い。そして神様の憐れみと慈しみも同じ。それが一番大切だから、それで十分。これからも神様を見失わないように歩みたいと心から願う、手話歴10年目の夏でした。
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Part 8 2010.02.13
とうとうやってしまった・・・・。
今回ばかりは笑い事じゃない!手話歴15年、これだけ続て来て今まで大丈夫だったのだからとタカをくくっていた(ーー;)
実は、今こうしてパソコンをいじれるようになるまでに2年近くかかりました。一昨年はパソコンどころか、ティッシュも握れなかったから・・・。
最近、『ゴスペル・サイン・ラゲージサークル』に訪問頂いた方からの感想メールが届き、「掲示板止めちゃったからどうしたのかと・・・」とお問い合わせを頂いた。そういえば、前回Part7をUPしてから5年も経過してる。掲示板を取り除いたのは迷惑メールが多発したからだけど。神様の哀れみで、最近体調も回復して来て、パソコンもいじれるようになったので、ちょこっと、このページをUPしてみたくなりました。
私の性質は、近しい人たちはよーくわかっているけど、とにかく走り出したら止まらない、イノシシのように猪突猛進!いつも思いっきりダッシュで走って、ある時突然バタッと倒れる。それは本人もよーくわかっているけどなかなか直らない。でも、今度ばかりは周りに与えた影響が(というか、かけた迷惑が)計り知れないので、反省の意味も込めて、文書に起こしつつ、今一度自分自身を振り返ってみたいと思います。
の日常はと言うと・・・
聖日礼拝にて教会学校の奉仕、礼拝メッセージの手話通訳が約1時間
礼拝前や午後の交わりでも夕方までぶっとーしで手話や通訳
毎週木曜日、約2時間から3時間の聖書の学びを通訳
午後の会食、交わりの間、5、6人の会話をだいたい3時から4時くらいまでずっと通訳
その他、教会のHPに載せるメッセージ原稿の校正、本の校正などなど、パソコンにかじりつく事毎日数時間。
それ以外の日はパート社員&主婦業
とまあ、こんな感じ。校正は6年、7年続けて来たでしょうかねー。
最初は、通訳後に頭がボーッとしていたけど、 それはいつものことで、その内時間が経てば元に戻るからと、自分もまわりもそれほど深刻に考えてはいなかった。それが、10分が20分に、20分が30分にと回復までの時間がどんどん長くかかるようになって、しまいには何時間も戻らなくなってしまった。思考回路がストップ、脳が飽和状態、精神が勝手に一人歩きをしているみたいな状態がしばらく続く。
どーもおかしいな〜と思った頃、手がしびれているのに気がついた。何となく手が震えて字がまともにかけない。体全体がなまりのように重い。どーもまっすぐ歩けない。段々様子がおかしくなる私を見かねた家族や友人たちが病院に行くよう強く強く勧めた。病院嫌いの私が重い腰を上げたのはそれからしばらくたっての事だったけれど。
最初に向かったのは整形外科。レントゲンを撮った。筋肉にも骨にも異常なしとの診断で、湿布だけ渡された(買わされたが正しいと思うが)
。
なんか違う・・・、このしびれはじゃあ何だ?
次は内科。血液検査をして、コレステロール値が異常に高い。血流が悪い。結果、動脈硬化との診断。薬をドバッともらって、次に向かったのは脳神経外科。手がしびれるからってことで。でも、両手にしびれるのは脳ではないからと門前払い。
紹介された、別の整形外科でまたもやレントゲンを撮らされて、肩こり体操が載ってるプリントをもらって診察終わり。ここはこれまで行った病院の中で最悪だった。
どの医師に、どんなに説明してもいまいちピンと来る解答がもらえない。もういい加減、病院のはしごにうんざりして 、もらった薬だけ飲み続けた。その間相変わらず手話通訳は続けた。何せ代わりが居ないから仕方ない。
そのうち、自分でも覚えのある状態が顕著になってきた。感情のコントロールがきかない。イライラ、おちこみ、鬱状態。腕を長くあげていられない。手が握れない。肩こり、頭痛、不眠症etc etc・・・ もう気分は最悪!
これはもうはっきり言って全部、経験腕障害の症状なんだよね〜。何でこんな分かりきった病名を医者は分からないんだろう???ま、病院の先生も全能じゃないんだから、そんなもんだろ・・・と諦めかけていたとき、友人がネットでその筋の病院を調べてくれて、ほとんどまともに歩けなくなった私を車に乗せて往復5時間かかる病院まで連れて行ってくれた。
頚肩腕障害を長い事研究しておられる医師の口から「病名は頚肩腕症候群。状態は、イエローカード。最低三ヶ月間手話禁止。パソコンも禁止」と診断された。2008年5月某日の事だった。
はいはい、分かりました。手話はやっちゃだめなのねー、って・・・簡単に行くわけが無いだろ!教会に毎週集うろう者はどーすんの?聖書の学びは?ろう者に会うなって言われたって困る!教会に行けばろう者がいるんだからさ。礼拝休めって?それは論外だわ。あー!それに教会のHPもUPしなくちゃ!全部全部どーすんのよ〜(;;)
って騒いだって、叫んだって何したって、どうする事も出来ない。とにかく直さなきゃ始まらないでしょ!って、家族からも周り中からも説得されて、何もしない事を誓わされた。
これまでの人生で、こんなにも苦しく辛い事はなかった気がする。私に何もするな!って?無理でしょ?それって。ねーねー皆さん、分かりますか?今まで頑張って続けて来たものを止めることの難しさがどんなだか。頑張れば頑張った分だけ辛いもんなんです。
そんな時、牧師から言われた言葉「いつも教会で讃美しているでしょ?『主が呼ぶのなら私は行きます。主がとどめるなら行かないでしょう。すべての事はあなたの御手に、ああ、主よ、導いて下さい。』と。今、神様はあなたに『とどまれ』と命じているのだから、神様の命令に従わないと」。
あ〜あ・・・一気にいじけてしまった(ーー#)それまでの信仰はどこに行ってしまったのか。ていうか、果たして私に信仰はあったのか?って・・・。ズーーーンと落ち込んだ。主が止まれと言ったって、止まりたくなんかない!絶対に行く!いやだ!ふん!神様なんか嫌い!私の行く手を留めようとする人は大っ嫌い!!
とまあ、毎日こんな感じ。不平不満、恨みつらみのすごいのなんのって。それまで、いかにもクリスチャンですって顔して、信仰者面していたんだから信じられない。
その頃の私の心の状態がどんなにめちゃくちゃだったか、お分かり頂けたでしょうか。でも、神様は私を見放さらなかったんですよ、感謝な事に。本当に神様の御言葉は真実なのだと、これは、後後になってから分かるんですけどね。
とにかく、医師から言われた3ヶ月間を拷問をうけてる心境で何とかかんとか過ごした。手話通訳はあまり経験のない姉妹たちが孤軍奮闘している様子を出来るだけみないようにして、ひたすら3ヶ月間耐えに耐え続けた。ろう者も一生懸命気をつかって話さないように努めてくれた。彼らとの唯一の更新手段は携帯メールだった。
教会の皆は私をたくさん気遣って助けてくれたけど、ろう者の辛さにまで配慮が行き届かなかったみたい。苦しい胸の内をメールで明かしてくれた。自分が通訳できない事で、ろう者に御言葉を伝えられない申し訳なさで胸が苦しかった。どんどんストレスがつのって行った。・・・で、ついに私の中で何かが壊れた。
手話禁止の宣告から2ヶ月が過ぎようとする頃、パニック障害に陥ってしまった。突然、呼吸が困難になり、体全体が硬直し、意味もなくのたうち回った。夜は眠れず、睡眠導入剤なしには居られなかった。日中は精神安定剤がなければ、家族は一時も安心して私を一人にしておけなかった。
何とか私の精神状態が少しでもよくなるならと、三ヶ月過ぎたのを機に短時間だけ通訳する事が許された。ありがたい事に、実際それでかなり状態はよくなった。頚肩腕症候群+動脈硬化+パニック障害・・・これまで病気と言った病気を経験した事のない私に、こんなにもたくさんの病いが襲い来るとは思っても見なかった。ま、それは誰しも同じだろうけど・・・。何もここまで徹底的にしなくたっていいじゃない神様っ!て思っちゃいました。
今思えば、この時の状態は、まるで旧約聖書に出てくるネブカデネザルのようだった。野を獣のように這いずり回り、髪は露に濡れ、おおよそ人とは言えないような有様にまで落ちた王様。私の霊の姿はまさしく彼のようだったと思う。どうしてネブカデネザルがそのようになったか、それは彼の高慢の故。私も彼と同様だったかも知れない。頚肩腕を発病してから約2年が経過した今、過去を振り返ってみると、自分の犯した過ちがよく見えて来た。いつもながら学習しない自分にあきれ果ててた。
さて、ここまでは人間みかりんの愚かさをまとめてみました。この後は、そんな私を最後まで見放さず、人の形に回復させて下さった事と、聖書の御言葉の通り、「すべてを益と変えてくださる」神様のくすしき御わざを証ししたいと思います。
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Part 9 2010.02.20
もう十数年以上も前になる。このサイトを立ち上げてから、キリスト者として手話通訳に関わっておられる方々との出会いが数多くあった。同じ信仰者として、そして、ろう者の福音伝道に対して思いを強く抱いておられる兄弟姉妹との出会いが与えられた。その方々から信仰面や手話にかんして数多くの事を教えられ、たくさん励まされた。本当に、HPを立ち上げてよかったと思う。
その中で10年以上親交が続いている一人の兄弟が、関東地区におけるキリスト教手話通訳派遣というビジョンを神様から与えられた。最初話しを聞いた時、かなり壮大なビジョンだな、と思った。「神様が導いて下さるように祈ります」、とは言ったものの、果たして本当にそんな事ができるようになるだろうか、とチラッと思ったりもした。というのは、キリスト教と一口で言っても教派によって手話表現が様々で、統一する事は簡単には行かないだろうと常々思っていたから。
でも、神様には不可能がない。きっといつか本当に実現するかも知れない。でも、それは自分とは関係ない、どこか遠い所で行われるのだろう、そう思っていた。「それでも祈りで協力する事は出来る!道が開かれるように祈ろう。そして一人でも多く働き人が起こされるように祈ろう。」・・・それからどれくらい経った頃だろう、一年だったか、いや、もっとだろうか。何となく話しの成行きが次第に現実味を帯びて来た。「へ〜っ!もしかしたらホントにホントに実現するかも!と、わくわくして来た。
そんなある日、「一緒にやりませんか?」とのお声がかかった。実際、びびった。
私なんかに何ができるだろう。手話も自信ないし、体力もないし、知恵もないし・・・とないものをいっぱい数えて結論はすぐに出た。「申し訳ありませんが」と、ご辞退させて頂いた。いや、無理だろう、ホント。今でも手一杯であっぷあっぷ状態だから、もし無責任に受けて、途中で「出来ません」なんて事になったら相手に迷惑がかかるし。うん。そうだ。やっぱり無理だ。
この頃、私の健康状態は決してよくはなかった。考えて見たら、少しづつ経験腕症候群が進行していた時期だった。週に二日間手話通訳をやるのが精一杯で、5年間携わらせて頂いた市民コンサートの通訳も下ろして頂いた。
でも、ええかっこしいの私は、敢えて理由は言わなかった。だから、当然ながら再度お声掛けを頂いた。記憶では2回断ったと思う。それでも3度目のお誘いがあった。
3度も声がかかるのは、もしかすると神様のオミチビキカモ?そしたら断ったらまずいな〜・・・。ま、いっか!なんとかなるだろう・・・と開き直った。
そして、「大したことはできませんが、それでよければ出来る範囲でお手伝いさせて頂きます」と返事した。多少、不安がないでもなかったが、一応、出来る範囲で、とちゃんと前もって了解得てるんだし。後は野となれ山となれって感じで神様にお任せする事にした。
正式名称「シロアム手話協力会」じゃ〜〜ん!
会の詳細をお知りになりたい方は、シロアム手話協力会HPをご覧下さいませ m(_ _)m
実はこの会の発足当初から、案の定 は使い物にならなかった。
通訳派遣の依頼が来ても、ことごとく体調の不調を理由に断った。月一で開かれる打ち合わせ会(現在は年に4回)も年に数回しか出席できなかった。健康状態は良くなるどころか、ますます悪化していった。「引き受けたはいいけど何も協力できなくて申し訳ないな〜、これ以上迷惑をかける前に役を下ろしてもらおう」、と考えた。でも私の申し出は毎回軽くかわされた。「気にしないでいいですよ。みんなで祈っていますからね」と暖かいお言葉が帰って来た。
彼らは口先だけではなく、本当に祈ってくれているのだと信じられた。とても励まされ、勇気が与えられた。人は時として本当に苦しい時、祈る事も讃美する事も御言葉に親しむ事も出来ない時がある。でも、そんな時、自分の為に祈ってくれている人たちがいるという事がどんなに慰めとなる事かを、今回しみじみと思わされた。シロアム会の存在が『かせ』となるどころか、私の支えとなっていた。
シロアム会は、キリスト教手話派遣を主な目的としているけれど、中に「とりなし祈りのグループ」なるものがあり、様々な祈りの課題をあげて祈ってくれている。また、登録者の中には ろう者、聴者の牧師をはじめ、同じ主に在る兄弟姉妹が多く在籍している。ろう者だろうが、聴者だろうが関係ない、同じ神様の子として、与えられた務めをそれぞれの特性を用いて、互いに協力し合う。そういう会である。
この章の冒頭にあげた兄弟が、一人一人の個性を尊重してくれ、素晴らしいリーダーシップを遺憾なく発揮してくれている。シロアム会が、これからも成長し、福音伝道に大きく用いられる会となる事を信じている。
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Part 10 2010.02.25
ところで、私の体調不良は結局一年以上続いた。医師から三ヶ月間の手話禁止令が出されてから、鍼治療や漢方薬、マッサージ、温熱療法など、よいと言われるものを色々とためした。その甲斐あって腕や肩の痛みは少しずつよくなってきた。手話通訳の方はホントに短時間に押さえるよう努めた。医師からは「手話を休まなければ治るまで時間がかかるよ」と言われたが、手話をしないでいる事の方が私には耐えられなかったから。それでも礼拝のメッセージ以外はほとんど手話をしなかった。
ある時、同じ地域に住むろう者の友人が、一人手話通訳者を連れて来て「あなたは手話をしないでいいから」と私を温泉に連れて行ってくれた。あーあ、こんなに皆に気を遣わせて、情けないな〜(;;)いつになったら良くなるのかな〜。気持ちとはまったく裏腹に身体は全然言う事を聞いてくれなかった。夏、冷房の効いた場所に入ると手足が氷のように冷たくなり、痛みを覚えた。冬も寒さで一度横になると固まって動けなくなってしまった。手も腕も肩もいつもズキズキ痛んでいた。このまま身体が治らなかったらどうしよう。そんな思いが頭から離れなかった。
そんな冬のある日、ろう教会のクリスマス会に誘われた。集う人たちは皆ろう者だから通訳は必要ない、うん、大丈夫だろう。体調も少しずつ良くなって来たし、たまには気分転換も必要だからと、家族の心配もよそに出かけた。遅くならなければ大丈夫!。そう信じじて・・・。実はその頃の私には身体状態のタイムリミットがあった。シンデレラよりもかなり早い時間、夜8時には家にいないと危なかった。気温の変化か、何のせいか分からないけれど、夕方から徐々に身体が固まり始め、夜の8時には完全に動かなくなってしまっていた。
さて、クリスマス会も終わり、帰ろうかな〜と思ったら、お茶に誘われた。時計を見た。6時。う〜ん、どうしようかな。ちょっと考えたけど、一時間くらいで帰ればギリギリ大丈夫・・・。その考えが甘かった!帰りの電車を待っていた時、時計を見たら、8時をまわっていた。・・・「やばい!」タイムリミットを切ってしまった。どうにか持ちますように!・・・そんな願いも虚しく、次第に身体の異変が起き始めていた。ギギギ・・・とうとう私の身体の油が尽きてしまった。身体が震え始めて来たと思ったその時、駅の切符売り場に倒れ込んでしまった。
私の突然の異常な状態に右往左往するろう者たち。一応頭だけは回るものの、身体がまったく自由が利かない。悲しくて情けなくてどうしようもなかった。その場にいた方々は皆ろう教会の信徒だった。どこの誰だか分からない新参者の私を手厚く介抱してくれた。寒いのに自分の上着を脱いで私に着させ、手袋をはずして私の手にはめ、私をおぶり、暖かい場所まで連れて行ってくれ、ホットミルクを注文して飲ませてくれた。傍にいて一生懸命私を励まし、背中をさすってくれた。
身体が温まって来た頃、再びおぶって電車に乗らせてくれ、私の家がある駅で皆が電車を降りて、タクシー乗り場まで行き、乗せてくれた。家まで送ると言って聞かなかったが、そこまで迷惑はかけられないからと、どうにか申し出を断った。人数はハッキリ覚えていないが、7〜8人いた ろう者が皆、心を一つにして私をこのように介抱して下さったのである。「良きサマリヤ人」、まさしく彼らの行いは「行いの信仰」そのものだったと思う。
この時の事を思い出す度、心が熱くなる。私が彼らに出来る恩返しは何だろう。手話を通して神様の御言葉を伝えることではないだろうか。早く元気になろう。そして、一人でも多くの人に御言葉を伝える者になりたい。「神様、どうか、私を早く回復させて、もう一度神様の御わざの為に用いて下さい。」と切に祈った。
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「病いにあったことは、わたしにとって幸いでした」
まさしく、これが私の今の心情。
人の信仰の有り様は、本当に苦しい時に
明らかになる、と言う。そういう意味で、自分が如何に信仰心のない者であったかを知らされた事はショックだったけれど、大きな恵みでもあった。信仰は自分で得られるものではなく、神様から与えられるもの。そして、試練もまた神様から与えられるもの。神様は決して意味のない事はなされない。だから今回、私に起きたすべての事にも意味があるのだと思う。
「まず第一に神を愛せよ。第二もそれと同様である。神を愛し、そして自分を愛するように隣人を愛せよ。」黄金律法!
病気になって、最も心配させたのは、他でもない家族。私は最も身近にいる隣人(家族)を大切にする、つまり愛するという事を怠っていたのではないか。それに、「自分を愛するように」との前提があって、その上で「隣人を愛せよ」とある。でも、果たして私は自分を愛していただろうか。答えは、「No!」。
自分の健康も考えず、無理をすればどんな結果になるか、分かっていながら続けて来たのだから。結局、病いに倒れ、家族を悲しませただけだった。そして、それほどまで固執して来た手話も通訳も出来なくなった。自分を愛せない者がどうして隣人を愛せるだろうか。一番身近な隣人である家族を愛せない者が、どうしたらろう者を愛せるだろうか。
手話に携わり、手話通訳を行う者にとって、「ろう者」の存在は外せない。だからいつも ろう者の事を考えていた。少しでも長く、たくさんの御言葉が学べるように。周りの状況をきちんと把握できるように。皆との交わりに加われるように。情報がなくて寂しくならないようにと、常に気を配って来た。だから、多少疲れていても無理をして来た。身体が悲鳴をあげていても無視した。ろう者の為だからと。まったく、ただの自己満足である。
神様が彼らを養って下さるというのに、私がろう者を養わなくてはなどと考えていたのだろうか。今考えてみたら、私の行って来た事はそういう事だったと思う。神様に頼る事をせず、自分の力に頼っていた。神様は病いを通して、私にその事を教えて下さったのだと思う。先ず、神様の御言葉に従うこと。そして、自分を大切にする事。そして、家族を大切にし、そして、隣人を愛する事。神様がすべての人を等しく守ってくださる事を信じること。神様より自分が先に出しゃばってはいけない事。牧師の命令に従順すること。教会の兄弟姉妹を信頼する事などなど、今回の病いを通して、私が学んだ事の如何に多い事か。
これらの事が、少〜しずつ分かるようになって来はじめた頃、それまで私を苦しめていた様々な症状が徐々に薄れていった。ほ〜んと不思議!!!ハレルヤ!
・・・で、
多少なりとも学習した私は、極力頑張らないように努力した。通訳も20分で他の人に交代するようにした。私以外の通訳に慣れていないろう者たちも、私の健康を気遣っ受け入れてくれた。何よりも助かったのは、シロアム手話協力会の存在。木曜日の聖書の学びの時に、通訳の奉仕を快く引き受けてくれた。日によっては、二人くらい協力に来て下さる事もあり、は、まったく手を休ませて頂けた。そのおかげで、体調がどんどん回復して来た。
現在、が所属している教会の ろう者の他に、ろう教会の牧師先生もこの聖書の学びに加わっておられる。前の章で書いた「よきサマリヤ人」と同じ群れの教会の牧師先生である。私のつたない手話で御言葉を聞くよりも、神様の油注ぎを受けた方を通して、御言葉を受ける事の方が、どんなに ろう者にとって幸いな事か。あの時、彼らに御言葉を伝えさせてくださいと祈った祈りに神様は、このような形で答えて下さったのだと思う。
自分の力に頼る事を止め、神様の力に頼るなら、神様は万事を益として下さるという事を、病いを通して教えられた。だから、「病いにあった事は、わたしにとって幸いでした」と心から言う事が出来る。まだまだ、不完全なは、また懲りずに失敗を犯すかもしれない。でも、この恵みを忘れさえしなければ、また神様を信じ続ける事ができると確信している。このページは、かれこれ10年以上かけて、ここまで辿り着いている。これから先も、ここに恵みの証しを載せ続けたいと思う、手話歴16年目の春でした。
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「愛する姉妹との別れ」
『わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。』
ヨハネによる福音書 15章5節
2010年6月25日(金)、これまで一緒に信仰の道を歩んでくれていた愛する一人の姉妹が神様に召された。彼女は難聴だった。
姉妹(M・Sさん)と初めて出会ったのは13年くらい前、が教会で つたない手話通訳をはじめた頃の事だった。このページの始めのあたりに書いてある、最初の頚肩腕症候群の症状が起り始めたころに導かれた ある集会で、たまたま自分の体の状態を話したところ、集会が終わった後で親切に話し掛けてくれたのがM・Sさんだった。「体に気をつけてね。無理をしないでね。」と初めて会った私の体をたいそう心配してくれた。それから後、数年に一度のわりで、集会や修養会などでばったり会う機会があった。
その後、お互いのFAX番号を教え合って、年に数回交わりを持つようになり、それから約10年の間、ゆっくりゆっくりと距離が縮まっていった。ある時、彼女がくれた手紙の中にこんな文章が書いてあった。「おばあちゃんになっても友だちでいようね。」と。本当に、おばあちゃんになっても、会って神様の話しができると思っていたのに・・・。
M・Sさんは、いつでも命の御言葉を慕い求めていた人だった。彼女とは、住む県が違うため、会うのはいつも中間地点・・・であるべきだけど、彼女の方が30分くらいよけいに電車に乗って来てくれた。お互いクリスチャンという事から、話題は終始、聖書の話し、信仰の話しだった。いつも大きなカバンに聖書を入れて(他に何が入っていたんだろう・・・旅行バックのような大きさだったけど・・・。)、ニコニコしながら待ち合わせ場所に立って待っていてくれた。彼女とのコミュニケーション方法は手話オンリーだったから、最初、慣れない読み取りに汗だくだった。その上、地域による手話表現の違いや、教会の教派による違いもあったから、焦りまくった。
M・Sさんとの距離が一気に縮まったのは、昨年の春頃から。年に数回会ってた関係から、一週間に2回会うようになった。それまで地元の教会に通っていた彼女が、私の所属教会の礼拝に通うようになった事がその理由。彼女の心の中にどんな葛藤があったのか、詳しくは知らない。彼女は聖書の話し以外、多くを語らない人だったから。ただ、あれほど熱心だった人が教会に行かなくなり、礼拝を欠席するようになった。信仰の試練の中で苦悩している彼女に、「神様から離れてはいけないよ。」と励ます以外に術はなく、簡単に「私の教会に来てみる?」とは言えなかった。何せ、私の所属教会は更に遠い場所だったから。
でも、ある時、「さんの教会の礼拝に出席しますので、通訳をよろしくお願いします」とメールがあった。その時以来、M・Sさんは、ほぼ一年間、休む事なく往復6時間近くかかる距離を通い続けた。耳が聞こえないというハンデを抱えながらも、誰よりも遠くから礼拝に集う彼女に対し、牧師をはじめ、教会の皆が励まされた。「あなたが家を出て、教会で礼拝を捧げて帰宅するまでのすべての時間を、神様はあなたが捧げた礼拝として受け取って下さいますよ。」と牧師が言い、道中の安全を祈っていた。
彼女は日曜日の礼拝だけではなく、毎週木曜日に開かれている聖書の学び会にも熱心に出席していた。今、思えば、これらすべてが神様の導きだったと思う。神様は、一年後に彼女を待ち受ける人生最大の試練に立ち向かう為に、前もって、信仰の武具を備えさせて下さったのだろう。
そんなM・Sさんが体調不良により礼拝を欠席するようになったのは、今年3月のはじめ頃だった。実は昨年の末頃から彼女の体調があまりよくなかった事をは知っていた。それでも、毎週の礼拝や学びに欠かさずに集っていたから、さほど深刻に考えていなかった。いよいよ礼拝出席が難しくなった頃、検査の結果を受けて4月はじめの週に、手術を受ける事が決まった。手術の前日、病室で一緒に祈った。退院して元気な彼女に戻る事を、教会全体が信じて疑わなかった。
ところが、術後の検査の結果、思ってもみなかった病名が告げられた。『子宮肉腫』、悪性ガンの一種だった。肉腫となった子宮をすべて摘出したが、肺や骨に転移したら、抗がん剤、放射線治療は一切効かない病いだと告げられた。病いの完全な癒しを求め、教会あげての『40日間連鎖祈祷』が始まった。一人づつ順番に断食しながら祈った。牧師婦人にいたっては、自分の病いをおして10日間の断食をして祈ってくれた。牧師は、毎週礼拝後に彼女の家を訪問し、共に讃美し、御言葉を語り、祈り、励ました。毎週木曜日には、牧師と教会の姉妹たちと共に、彼女の家を訪問し、共に祈り、御言葉の交わりをした。何故ならば、彼女自信、御言葉を聞く事を何よりも求め、楽しみにしていたから。
5月の中頃、牧師のもとに、M・Sさんから以下の祈りの言葉がメールで届けられた。
「神様、どうか助けて下さい。どうか、私を生かして下さい。
これから元気になって、感謝して神様に仕え、礼拝をお捧げし、いっぱい奉仕をしたいのです。命の御言葉の教会に、私の主人や、娘たちや孫や、友人を導きたいのです。
私の命を取り去らないで下さい。
神様、お願いします。転移がないようにしてください。私にもっと命の御言葉を聴かせてください。イエス様のお名前によってお祈りします」と。
それから、約1ヶ月半後、
M・Sさんは天に召された。聖書の学びは、彼女が亡くなる二週間前まで続けられた。その後は、視力が著しく低下して、手話を長い時間見ていられなくなったので、牧師から短く聖書の言葉が語られた。そんな状況でも、礼拝で語られたメッセージをメールで送ってほしいと、最後の最後まで神様の御言葉を慕い求めていたM・Sさん。何故、神様はこんなにも早くに彼女を召されたのだろう。元気になって、教会でたくさん奉仕し、家族に福音を伝え、友人を伝道する事をあんなに楽しみにしていた彼女を・・・。
神様の思いと私たちの思いは異なる。神様は、全地全能なるお方。万物すべてを創られたお方。ラザロを死からよみがえらされたイエス様は今も生きておられる。そのお方がM・Sさんを召されたのだから、きっと何かのご計画があっての事に違いない。
の小さな小さな頭では、神様の深い思いには到底及ぶべくもない。受け入れるしかない。でも、愛する姉妹との地上での別れはとても辛く、残されたご家族の心中を思うと、心が痛くて痛くてしかたがない。しかし、私たちは、この悲しみを乗り越えなくてはならない。そして、M・Sさんの切なる祈りだった ご家族の救いの為に、彼女の祈りを引き継いで行こうと思う。
M・Sさんが亡くなる一週間前の事、彼女が病いに伏してからずっと祈り、励まして下さっていた、ろう者の牧師先生が、病室で彼女と会話した時の様子を伝えて下さった。
「前の晩、誰かが私の肩に手を置いた。誰だろうと振り返ったが、誰もいなかった。気のせいかと思ったが、しばらくして、また肩に
手が置かれた。その手は、とても温かく、やさしい手だった。再び振り返って、そこに誰もいない事を確認した時 、心がとても平安になった。きっと、その手はイエス様の手だったのだと思う。」と。
また、M・Sさんが亡くなる前夜、彼女の友人が病室を訪れた時、ほとんど意識のなかった彼女が一瞬、意識がハッキリとして、手話で友人たちに語ったと言う。
「最後まで神様から離れないで、神様に従って行って下さい」と。
キリスト教式で行われた葬儀には、本当に大勢の人が参列した。「姉妹は、いつも命の御言葉を慕い求めていました。どんな時もイエス様に繋がっていた姉妹でした。」と、M・Sさんの信仰の証しが牧師によって語られた。多くの方々が、彼女の信仰のあり方に感動した事だろう。後日、日曜日の礼拝に出席したいと、M・Sさんの友人が数名、の所属教会に来られた「彼女が、あれほどまでに熱心に通っていた教会に行ってみたい」と言って。また、しばらく信仰の道から離れていた友人たちが、「M・Sさんが通っていた教会に行ってみたい」と話しておられるという。
と、M・Sさんとの交わりは通算13年続いた。共に祈り、学び、笑い、泣き、時には喧嘩もしながらお互いの信仰の成長をはかってきた。最後の一年は、共に深く、命の御言葉を分かち合えた。最後の3ヶ月は、13年間が圧縮されたような交わりの時だった。最後の一週間は、互いに信頼し、心でつながった。そして、亡くなる前日、笑顔で「またね」と言い合えた。その日、意識がもうろうとする中で、彼女が言った言葉を私は一生忘れないだろう。
「手話をすると頭が疲れるから、このプリン食べてね。あまり長く手話をしてると疲れるから、無理しないでね。 」と。
自分の事以上に、の体を気遣う彼女の言葉に涙がこぼれ落ちた。初めて会ったときと同様、否、それ以上に彼女の優しさが凝縮された言葉だった。神様が何故、こんなにも早くM・Sさんを召されたのかは分からない。でも、全能なる神様が最善をなして下さる事を信じ、
も、M・Sさんのように最後までしっかりとイエス様の幹に繋がっていたいと思う。
このページにM・Sさんについて載せたのは、彼女の御言葉に対する情熱を一人でも多くの人に知ってもらいたかったのと、自身、彼女の事を忘れる事がないように、記録に残しておく為。そしてM・Sさんが
の心の中に、そして彼女を知る多くの人たちの心の中に、永遠に生き続ける為。
ところで、あの大きなカバンの中には一体何が入ってたんだろう・・・
ま、いっか・・・また会えるのだから、その時に聞こうっと・・・