序 ゴスペルサインランゲージサークルのプロフィール
昔話 2000・3 作成
Part 1 サークルのこと 2000・2・
2 作成
Part 2 クリスチャン新聞掲載内容訂正 2000・2・10 作成
Part 3 手話通訳って??? 2000・2・20 作成
Part 4 変化 2000・5・10 作成
Part 5 手話讃美について思う事 2000・5・15 作成
Part 6 手話を学ぶのは何のため? 2000・7・15 作成
Part 7 手話歴10年 2005・8・5 作成
Part 8 頚肩腕障害 2010・2・13 作成
Part 9 シロアム手話協力会 2010・2・20 作成
Part 10 よきサマリヤ人 2010・2・25 作成
Part 10 病いにあったことは・・・ 2010・2・25 作成
手話とわたし |
昔話
だから聞こえるとか、聞こえないとかの問題ではなく個人の関係において、大切な『ともだち』との交わりの中で、お互いの心と心を紡ぐなら「手話」の果たす役割は大きいと思う。必要だから手話を学ぶし、友人が必要としてくれるから通訳も喜んでする、というのが本音。大切な人たちの大切な言語である「手話」は、私にとっても大切な言葉であることに変わりはない。人と人の出会いも様々あるように、当然、その中には『聞こえない』という方もいる。どの人も尊い。出会った人と伝え会っていくことで共に成長できるのは、お互いに益となる、しごくあたりまえ。でも、教えてもらう事の方が多い、というのが現状。 子供の時、あの聞こえないお姉さんとは友だちになれなかったけれど、何時の日か、もし会えたなら「ずーっとず−っと会いたかった。話したかった」と手話で言いたい。その時、私は「手話」が大好き!と言うだろう。
part 1 「いや、違う!!」と否定します。なんなんだだこれは・・・。サークルが好きだったし、サークルを止める時は、手話も止める時なんて思ってたぐらい、大切な仲間がいたのに、どうして自分の思いとは別の流れが起きてくるのだろう・・・。地域の中で「通訳者」になることが神様の御心なのか、それとも、別な働きがあるのか....と悶々と悩む日々。 「お前は、どうするのか?」そんな問いかけがグルグルと頭を巡る。教会を優先にするなら地域の働きに支障をきたす。その逆もあり。「どっちも大切!!、どっちもやりたい。だって、そうでしょ?現に、両方の働きをちゃんとしている人だっています、どうして私はどちらかを選ばないといけないんですか?」それでも、神様は何も答えてくれない。 苦しいよ〜・・・早く答えを見つけてしまわないと楽にならない、と分かっていたけど、誰か、教えてよ〜!!と、その時「何で手話の勉強を始めたんだっけ?」と主人。「教会に聞こえない人がきたら通訳する為」と私。「じゃあ、答えは簡単だろ?初心を貫けばいいだけでしょ?」「そんな簡単に・・・」おっと待てよ、もしかしたら軌道が間違っていたからこんなに苦しいのか?。教会で働く、という思いを主が下さったのに、勝手に軌道を変更したから、もしかしてこんなに苦しいのかな。簡単な事だった。こうなったら「え〜い!!主に信頼するしか サークルにきている聞こえない人に会ってきた。サークルを辞める事、でも友人関係は決して無くならないという事を一生懸命に説明した、つもり。じ〜っと話を聴いてくれた。「もう、通訳者になってと言わないからサークルに顔をだして」「自分の都合でいい。日曜日の行事は出なくていいからサークルだけでも来れば?」こんなにまで言ってくれる大好きな人たち。「 辞めないで、しばらく休みにしておけばいい。」「余裕ができたらでいい」ウン、ウンとうなずきながら「そんな日が本当に来るのかな・・・」と複雑な心境だった。 しばらく放心状態が続く。「ホントにこれでよかったのか?」と戸惑いが頭をもたげる。いら立ちがつのる。サークルが、いや、友人たちとの関係がブチッと切られてしまったようで持って行き場のない怒りが押し寄せる。自分で選んだ結果なのに、なんたる弱さ。またしても情緒不安定状態に入り込んでしまった。こんな時はあれっきゃない、祈りの友に信号を送った 、「・・・ - - - ・・・」。(SOS) 祈る中、聞こえない人に御言葉を伝えるため手話を続ける、そう確信した時、心に平安の波が押し寄せてきた。やっとトンネルの出口が見えてきた。ここまでの間、聖書には大変御世話になりました。そして、これからもずっと・・・・。
part 2教会での手話奉仕について思う事を述べる前に少々。 手話通訳者の病気である頸肩腕障害は、聞こえない方自身も共に悩んでしまうものだから、通訳者個人だけの問題で済まなくなるのである。記事を読んだろう者の気持ちになって考えると、間違って掲載されてしまい、申し訳なかった・・・・という思いでいっぱいである。手話をさせて下さったのは神様だし、主の為に奉仕させて頂いてるのだから、聞こえない人が私に対して、必要以上に気を使ったり、自分を責めるような事は決してあってほしくないし、主の御心ではないと思う。また、神様に与えられた身体を管理するのは自分の責任である。しかしながら以後は言葉にしても文章にしても常に他者の気持ちになって発する必要アリ、と肝に命じた。
技術不足といえど毎週の礼拝メッセージは待ってくれない・・・あたりまえだけど・・。一番不安だったのは、牧師のメッセージ=神様の御言葉、そんな大事なメッセージをちゃんと伝えられるか?という事。常に自問自答する。「間違ってなかったかな、伝えられたかな......」そんな風に考えていくうち、ものすご〜い重圧がのしかかってきてしまった。「間違えて伝えたら大変だ〜、どうしよう・・・責任が重すぎる〜。こわいよー」等など、悩めば悩む程落ち込んでいった。
part 3音声語を手話に変換する、という作業は、言葉で言えば単純なのだが、頭の中のコンピューターはめまぐるしく動いている、らしい。耳で聞いた言葉を、まずは音声語の情報処理を行う。次に頭の中で手話に変換する。そして手話動作をしつつ、同時に音声言語の処理を行う、とのこと。ひぇ〜人間の脳ってすごーい。ちょっと横道にそれるが、車を運転していて時々感心する事がある。両手両足別々の動作をしながら、 話は戻って通訳のこと。そんなにすごい脳を以てしても無理なことがある。それは、手話通訳をしている時、変換したと同時に瞬間的に内容を消去しているということ。パソコンみたいに、後でゴミ箱から救出、ということはできない。(たぶんこれは人それぞれで、ちゃんと記憶に残っている人もいるとは思いますが、あくまでも私の場合です)つまり礼拝中のメッセージの内容はほとんど覚えていない。後で人に聞いた時、「あー、そういう ・・・で、不満がでてきた。「私だってメッセージを聴きたい!!」と無い物ねだり、である。ぎゃーぎゃー言ったら礼拝メッセージのテープを毎週下さるようになった。ホントにワガママな私。それを持ち帰って家で聴いている時、結局、メッセージを聴きつつ、手話に変換して聴いている。じゃあ、ってことで かと言って、たまたま通訳奉仕のない日曜日、「今日は、聴こう」と思っても、結局は手話に変えてしまっている。極力何も考えないようにして聴いていると、メッセージの途中から居眠りをしてしまう不謹慎さ。なんたることだ。どうしたら毎週の御言葉を聴く事ができるのだろう・・・? 教会で手話通訳という奉仕をしているのではなくって、手話通訳という恵みを受けていたことに気がついた。神様の御言葉がこんなお粗末な身体を通して伝わっていく。でもきっと、聖霊さまの助けが何十倍もあって聞こえない方に届けられているのかも知れない。以前、自分の力でなんとかしようとしていた時は苦しいだけだったし、重責を感じていた。必死になって原稿に目を通し、どうにか対処しようとしていた。でも、自分の力では何 以前は、礼拝前に胃が痛くなることもあったけれど、今は、喜びで満ちている。委ねてしまうと不思議と、手話が自然に動き出す。腕のほうはたいして上達していないけれど、気持ちが前の時とは全く違うことに気がついた。礼拝が終った後は、心がポッカポッカしている。前に比べると体力的にも、それほど疲れはしなくなった。聞こえない方一人一人を、慈しんでいる主の愛が、感覚を通しこちらにも伝わってくる。私自身も嬉しくなる。なん 「ちゃんと伝えられたか?」という心配もなくなった。私の手話の技術を誰よりもよく承知している神様が、あえて、このでもいいよ、とお用い下さっているのだから、足りないところは主が補って下さるだろう。聞こえない方に必要な御言葉は、聖霊様が必ず届けて下さっているはず。だから、心配したってしょうがない!!と、すっごい開き直った今、とっても楽になった。自分が前面にでている時、実力以上のものはどれだけ頑張っても、でてこない。でも、主にあけわたしてしまったら信じられないくらいスムーズに手が動き出す、ということを何度も経験させて頂いた。「こんなに楽な事はない」だったら、いつも委ねていればいいでのでは?と誰でも思う。 ところが、毎回そうスムーズにいかないのが人間の弱さなんだな・・・・とつくずく思う。祈りの通訳をしている時、通訳しながら頭の中で『今日は調子がいいな』とか祈りとは全くかけはなれた事を考えていたりする。メッセージの間も、然り、である。スムーズに手が動くと、さも自分の技術が上達したような錯角にとらわれてしまう。聖霊さまが助けて下さっているということを忘れてしまう。あー、危ない危ない。いかに、自分を十字架につけるか・・日々、高慢との戦いである。 とは言っても、日々の努力は必要。あんまり、神様任せにすると、たまに「ゴツンッ」とされてしまう。教会の手話通訳は、神学的な知識も必要なのかな?。また、以前、手話を教えて頂いた方から「手話通訳者はもう一人の説教者である」と聴いた事がある。その時はよくわからなかったが、主の御言葉を、自分の知識や小手先の技術だけではなく、祈りを持って聖霊の助けを頂きながら伝達する必要がある、と言う事だろうか・・・なんと奥の深いことだろう。まだまだ学ぶことは山程あり。
2000年になった。時間は止まらない。毎日が静かに、けれど劇的に変化を遂げていく。教会の中も、周りの環境も確実に変わっていく。あたりまえのことなんだろうけど。でも、神様の恵みは、常に変わらない。こんな弱い者にも役割を下さり、成長させてくださっている。うれしいな〜...。季節は春を過ぎ、初夏の空気がただようこの頃、ようやく冬眠から目覚めたです。このページも久しぶりで追加と模様替え。ミカンいろ。ん〜....いいな〜ちょっと余談ですが、実は、私、部屋の模様替えが好きなんです。同じ物なんだけど、家具の位置や、カバーの模様がほんのちょっと変わっただけで、気分もスッキリしちゃうのです。もしかすると、変化するって、心にとっていいことかも????...なんて、かってに考えてしまいました。 そこで、「変化」というタイトルでちょこっと証ししてみたいと思います。 教会の中の変化は?...というと、これまたビックリ!(@_@) 手話通訳の方はというと、現在、3名体制で行っている。その他、讃美担当者が5、6人。手話の学びを特別行っていなくても簡単な会話ならできるようになった方も多い。聞こえない方との交わりを通して自然に身につけているのだと思う。先日の洗礼式の折に、近隣にお住まいのろう者クリスチャンと、手話通訳の方が共に参加して下さった。教会で聞こえない方、聞こえる方が自然にとけあってる様子を御覧になって驚いていた。そして、つい先日、難聴者信徒の集いにて証をさせて頂いた。今までの教会の様子と経過、これからの課題について思う事を述べさせて頂いた。原稿を作成している時、以前を振り返って、じわ〜っときてしまった。沢山の恵みを頂いたんだな〜....あらためて主の懐の大きさに感謝。
さて、聞こえない、と一口に言っても、いろいろな方がいる。ろう者、難聴者、中途失聴者...手話も一種類ではない、大きくは、『日本語対応手話(シスコム)』と『伝統的手話(日本手話)』がある。地域による違いもあるし、聞こえない方の年齢、教育環境によっても違いがある。何が言いたいか?専門的なことはよくわからないが、早い話、教会にいる『聞こえない方』は様々なのに、手話通訳者は、全ての人に合わせる事はできない。どうしたらいいもんか.....それが、これからの宿題。課題があるから、止まってなどいられない。でも、きっといつか、この課題もクリアできる時がくるかも知れない。そしたら、またきっと別の宿題がでることと思う。楽しみ、期待、ちょっと不安。
手話讃美について、思う事を少々。 の教会での讃美は...というと、聖歌、讃美歌の他、ワーシップソングなども礼拝の中に取り入れている。講壇の脇に立って手話讃美しており、その後ろに OHPで歌詞を写し出している。手話表現は、極力、意味をつかんでの表現をするように心掛けているが、リズムや、メロディに合わせて手話讃美をすると、どうしても合わせられない時もある。それに、聞こえない人自身のニーズによっても違ってくる。例えば、手話で讃美したい人もいれば、言葉として讃美したい人もいる。言葉の意味をとらえた手話表現では、とらえ方に個人差があるし、讃美の時に即座に真似ながら言葉を追うのは難しい。 だから、手話讃美はこれ、と決めるのではなくて、それぞれが、心から讃美できる方法を選べばいいと思う。文章通り手話表現するか、又は、意味をとらえた方がいいかは、個人 〃 まちまちだと思う。今、週に一度手話讃美のグループが集まって練習の時を設けている。次の礼拝の讃美練習が主だが、その他の集会で讃美する曲や、新しい讃美や、子供讃美なども一緒に練習している。練習日には、ろう者も時々参加してくれるので、意味が通じるかどうかを確認しながら話し合って、表現方法を決めている。 聖歌、讃美歌は、表現方法が難しい。でも、日本語の情緒ある昔の言葉も趣があって美しい。一つの言葉の中に、とても深い意味が隠されていることを発見できた時は喜びである。若い人たちにとって、古典的な言葉を理解するのは難しいらしい。手話がわかる人は「手話讃美を見た方が言葉の意味がわかる」といっている。聞こえる人の中でも、教会で使っている聖歌は、ほとんどがひらがなで書いてあり、意味もわからず歌っている人もいるようだ。現在は、讃美歌も聖歌も、現代語に変えて頂いている。その現代訳を、意味をつかんで手話で表わしている。 ただ、手話讃美は、見た目の美しさのみに惹かれてしまい、手話讃美している自分自身にうっとりしてしまう危険性あり。また聞こえない方の情報手段としての手話だけれど、聞こえない人の為に手話讃美をしているのではなくて、手話という手段を用いて、聞こえない方たちと一緒に主を讃美するという事を常に念頭に置く事が大切だと思う。それに、視覚的に表現できる手話讃美は、音声言語のそれにとどまらず、全身全霊で主を讃美できる。共に主を讃美することができる恵みに感謝しつつ行いたいと思う。
楽器を使っても、声や音をつかっても、絵を描いたり、主を讃える造型を作ったりと讃美の方法は何であろうと、心からのものであるなら、かぐわしい香りとして主は喜ばれることだろう。手話を用いて主を讃美する、主の為に。 手話讃美とは?手話という手段を用いて主を讃美すること。讃美の方法に「こうあるべき!」というものはないのでは?以上が、手話讃美に思う事でした。
手話を学ぶのは何の為? 人は、どうして外国語を学ぶのだろう・・・・学んだ成果を発揮して、評価してもらう為?それとも、外国語が好きだから?外国の文化に魅力を感じるから?、知り合った方が外国語を話す人だったから?・・・・その外国語を学んで、現在、その国の人と親しい友人関係にありますか?その友人と親しくなる為には、どのような経過がありましたか?なんの問題もなく交流できていますか?そして、信頼関係を結んでいますか? 手話を学ぶのは何の為だろう.....ボランティア精神?更なる自己開発?確かに、新しい分野を切り開くという意味では、勉強のしがいがあるやも知れない。手話を覚える事で、交友関係が広がるし、教会内に聞こえない方がいれば、信徒同士のコミニュケーションの助けにもなるかも知れない。でも、それだけでいい?。 当然ながら、手話と聞こえない方たちを切り離す事はできない。そうだとしたら、聞こえない人を理解せずに手話だけを学んでしまっては意味がなくなるのではないだろうか。聞こえない人の気持ちを、本当に理解しようと思って手話を学んでいるだろうか?心のコミュニケーションをとろうと努力しているだろうか?聞こえない人の喜び、悲しみ、苦しみを分かち合おうと努力しようと思ってるだろうか? 人と人の間には、聞こえるとか聞こえないとかよりも大切な事があると思う。確かに、言葉が違えば価値観も異なる事がある。自分には常識と思う事が、相手にとっては非常識ということにもなる場合がある。ましてや、聞こえない、という事で受ける様々な障壁がある人たちは、聴者には理解できない環境の中で対応してきた経緯もある。当然ながら、理解しがたいことも時には起こりうる。でも、その事を、お互いが受け入れる事を怠ってしまっては、寂しい事だと思う。 教会の中で、手話が広がりつつある今、私自身も、もう一度原点にかえって、手話に対する認識を新たにしてゆきたいと思う。そして、教会の一人一人が、『手話』に対しての興味だけではなく、心の交流をはかっていってほしいと願っている。言葉=健聴者、と考える人は、あまりいないと思う。言葉は、その人のほんの一部分。それと同じで、手話=聞こえない人、ではない。聞こえない人自身と、付き合っていく、その為に、手話の学びが生かされていってほしいと願っている。
さてさて......何から始めよう。ここまで読み進めて下さった方は、Part1〜6迄と、昔話の作成日から5年の月日が経過していることに気づかれた事だろう。Part,1の中で「10年手話通訳を経験して初めて通訳者と言える」と聞いた事について述べてある。だから、実際10年経過した今、どんなモノかと自分を振り返ってみる。 何がどうなったか?身辺の環境はそれなりに変化したけれど、手話や、ろう者に関して思う事は、5年前に記した時と何ら変わりないように思う。一週間に2〜3回位礼拝や集会にて奉仕してはいるものの、手話の技術は...たいしたもんじゃないし、相変わらず手話の読み取りは苦手なまま。現在、教会での通訳は、100%日本語対応手話を求められているので、日本手話風表現はすっかりなりを潜めている状態である。大きな声では言えないが、手話訳聖書ビデオを見ると少なからず影響を受けてしまい、シムコムの通訳方法が乱れてしまう為、キャビネットにしまい込んで久しい。ろう者の友人からは、「どちらも出来るように勉強が必要」と叱咤激励されている状態である。コンサートの通訳では、早口のゲストに毎回閉口している有様。時々、初めて手話通訳を目にされた人からは「お上手ね〜」なんて言われるが、当の本人はまるで人ごとのように聞いて流している。謙遜でも何でもなくて、未熟さを熟知している所以である。 な〜んだ。結局あまり変化してない。でも、変わらないのは、友人との交流。主に在る兄弟姉妹との交わりと恵みの分かち合い。そして神様の憐れみと慈しみも同じ。それが一番大切だから、それで十分。これからも神様を見失わないように歩みたいと心から願う、手話歴10年目の夏でした。
Part 8 2010.02.13 とうとうやってしまった・・・・。 私の性質は、近しい人たちはよーくわかっているけど、とにかく走り出したら止まらない、イノシシのように猪突猛進!いつも思いっきりダッシュで走って、ある時突然バタッと倒れる。それは本人もよーくわかっているけどなかなか直らない。でも、今度ばかりは周りに与えた影響が(というか、かけた迷惑が)計り知れないので、反省の意味も込めて、文書に起こしつつ、今一度自分自身を振り返ってみたいと思います。 の日常はと言うと・・・ とまあ、こんな感じ。校正は6年、7年続けて来たでしょうかねー。 どーもおかしいな〜と思った頃、手がしびれているのに気がついた。何となく手が震えて字がまともにかけない。体全体がなまりのように重い。どーもまっすぐ歩けない。段々様子がおかしくなる私を見かねた家族や友人たちが病院に行くよう強く強く勧めた。病院嫌いの私が重い腰を上げたのはそれからしばらくたっての事だったけれど。 次は内科。血液検査をして、コレステロール値が異常に高い。血流が悪い。結果、動脈硬化との診断。薬をドバッともらって、次に向かったのは脳神経外科。手がしびれるからってことで。でも、両手にしびれるのは脳ではないからと門前払い。 これはもうはっきり言って全部、経験腕障害の症状なんだよね〜。何でこんな分かりきった病名を医者は分からないんだろう???ま、病院の先生も全能じゃないんだから、そんなもんだろ・・・と諦めかけていたとき、友人がネットでその筋の病院を調べてくれて、ほとんどまともに歩けなくなった私を車に乗せて往復5時間かかる病院まで連れて行ってくれた。 はいはい、分かりました。手話はやっちゃだめなのねー、って・・・簡単に行くわけが無いだろ!教会に毎週集うろう者はどーすんの?聖書の学びは?ろう者に会うなって言われたって困る!教会に行けばろう者がいるんだからさ。礼拝休めって?それは論外だわ。あー!それに教会のHPもUPしなくちゃ!全部全部どーすんのよ〜(;;) これまでの人生で、こんなにも苦しく辛い事はなかった気がする。私に何もするな!って?無理でしょ?それって。ねーねー皆さん、分かりますか?今まで頑張って続けて来たものを止めることの難しさがどんなだか。頑張れば頑張った分だけ辛いもんなんです。 あ〜あ・・・一気にいじけてしまった(ーー#)それまでの信仰はどこに行ってしまったのか。ていうか、果たして私に信仰はあったのか?って・・・。ズーーーンと落ち込んだ。主が止まれと言ったって、止まりたくなんかない!絶対に行く!いやだ!ふん!神様なんか嫌い!私の行く手を留めようとする人は大っ嫌い!! その頃の私の心の状態がどんなにめちゃくちゃだったか、お分かり頂けたでしょうか。でも、神様は私を見放さらなかったんですよ、感謝な事に。本当に神様の御言葉は真実なのだと、これは、後後になってから分かるんですけどね。 とにかく、医師から言われた3ヶ月間を拷問をうけてる心境で何とかかんとか過ごした。手話通訳はあまり経験のない姉妹たちが孤軍奮闘している様子を出来るだけみないようにして、ひたすら3ヶ月間耐えに耐え続けた。ろう者も一生懸命気をつかって話さないように努めてくれた。彼らとの唯一の更新手段は携帯メールだった。 手話禁止の宣告から2ヶ月が過ぎようとする頃、パニック障害に陥ってしまった。突然、呼吸が困難になり、体全体が硬直し、意味もなくのたうち回った。夜は眠れず、睡眠導入剤なしには居られなかった。日中は精神安定剤がなければ、家族は一時も安心して私を一人にしておけなかった。 何とか私の精神状態が少しでもよくなるならと、三ヶ月過ぎたのを機に短時間だけ通訳する事が許された。ありがたい事に、実際それでかなり状態はよくなった。頚肩腕症候群+動脈硬化+パニック障害・・・これまで病気と言った病気を経験した事のない私に、こんなにもたくさんの病いが襲い来るとは思っても見なかった。ま、それは誰しも同じだろうけど・・・。何もここまで徹底的にしなくたっていいじゃない神様っ!て思っちゃいました。 今思えば、この時の状態は、まるで旧約聖書に出てくるネブカデネザルのようだった。野を獣のように這いずり回り、髪は露に濡れ、おおよそ人とは言えないような有様にまで落ちた王様。私の霊の姿はまさしく彼のようだったと思う。どうしてネブカデネザルがそのようになったか、それは彼の高慢の故。私も彼と同様だったかも知れない。頚肩腕を発病してから約2年が経過した今、過去を振り返ってみると、自分の犯した過ちがよく見えて来た。いつもながら学習しない自分にあきれ果ててた。 さて、ここまでは人間みかりんの愚かさをまとめてみました。この後は、そんな私を最後まで見放さず、人の形に回復させて下さった事と、聖書の御言葉の通り、「すべてを益と変えてくださる」神様のくすしき御わざを証ししたいと思います。
Part 9 2010.02.20 もう十数年以上も前になる。このサイトを立ち上げてから、キリスト者として手話通訳に関わっておられる方々との出会いが数多くあった。同じ信仰者として、そして、ろう者の福音伝道に対して思いを強く抱いておられる兄弟姉妹との出会いが与えられた。その方々から信仰面や手話にかんして数多くの事を教えられ、たくさん励まされた。本当に、HPを立ち上げてよかったと思う。 その中で10年以上親交が続いている一人の兄弟が、関東地区におけるキリスト教手話通訳派遣というビジョンを神様から与えられた。最初話しを聞いた時、かなり壮大なビジョンだな、と思った。「神様が導いて下さるように祈ります」、とは言ったものの、果たして本当にそんな事ができるようになるだろうか、とチラッと思ったりもした。というのは、キリスト教と一口で言っても教派によって手話表現が様々で、統一する事は簡単には行かないだろうと常々思っていたから。 でも、神様には不可能がない。きっといつか本当に実現するかも知れない。でも、それは自分とは関係ない、どこか遠い所で行われるのだろう、そう思っていた。「それでも祈りで協力する事は出来る!道が開かれるように祈ろう。そして一人でも多く働き人が起こされるように祈ろう。」・・・それからどれくらい経った頃だろう、一年だったか、いや、もっとだろうか。何となく話しの成行きが次第に現実味を帯びて来た。「へ〜っ!もしかしたらホントにホントに実現するかも!と、わくわくして来た。 そんなある日、「一緒にやりませんか?」とのお声がかかった。実際、びびった。 この頃、私の健康状態は決してよくはなかった。考えて見たら、少しづつ経験腕症候群が進行していた時期だった。週に二日間手話通訳をやるのが精一杯で、5年間携わらせて頂いた市民コンサートの通訳も下ろして頂いた。 3度も声がかかるのは、もしかすると神様のオミチビキカモ?そしたら断ったらまずいな〜・・・。ま、いっか!なんとかなるだろう・・・と開き直った。 正式名称「シロアム手話協力会」じゃ〜〜ん! 実はこの会の発足当初から、案の定 は使い物にならなかった。 彼らは口先だけではなく、本当に祈ってくれているのだと信じられた。とても励まされ、勇気が与えられた。人は時として本当に苦しい時、祈る事も讃美する事も御言葉に親しむ事も出来ない時がある。でも、そんな時、自分の為に祈ってくれている人たちがいるという事がどんなに慰めとなる事かを、今回しみじみと思わされた。シロアム会の存在が『かせ』となるどころか、私の支えとなっていた。 シロアム会は、キリスト教手話派遣を主な目的としているけれど、中に「とりなし祈りのグループ」なるものがあり、様々な祈りの課題をあげて祈ってくれている。また、登録者の中には ろう者、聴者の牧師をはじめ、同じ主に在る兄弟姉妹が多く在籍している。ろう者だろうが、聴者だろうが関係ない、同じ神様の子として、与えられた務めをそれぞれの特性を用いて、互いに協力し合う。そういう会である。 この章の冒頭にあげた兄弟が、一人一人の個性を尊重してくれ、素晴らしいリーダーシップを遺憾なく発揮してくれている。シロアム会が、これからも成長し、福音伝道に大きく用いられる会となる事を信じている。
Part 10 2010.02.25 ところで、私の体調不良は結局一年以上続いた。医師から三ヶ月間の手話禁止令が出されてから、鍼治療や漢方薬、マッサージ、温熱療法など、よいと言われるものを色々とためした。その甲斐あって腕や肩の痛みは少しずつよくなってきた。手話通訳の方はホントに短時間に押さえるよう努めた。医師からは「手話を休まなければ治るまで時間がかかるよ」と言われたが、手話をしないでいる事の方が私には耐えられなかったから。それでも礼拝のメッセージ以外はほとんど手話をしなかった。 ある時、同じ地域に住むろう者の友人が、一人手話通訳者を連れて来て「あなたは手話をしないでいいから」と私を温泉に連れて行ってくれた。あーあ、こんなに皆に気を遣わせて、情けないな〜(;;)いつになったら良くなるのかな〜。気持ちとはまったく裏腹に身体は全然言う事を聞いてくれなかった。夏、冷房の効いた場所に入ると手足が氷のように冷たくなり、痛みを覚えた。冬も寒さで一度横になると固まって動けなくなってしまった。手も腕も肩もいつもズキズキ痛んでいた。このまま身体が治らなかったらどうしよう。そんな思いが頭から離れなかった。 そんな冬のある日、ろう教会のクリスマス会に誘われた。集う人たちは皆ろう者だから通訳は必要ない、うん、大丈夫だろう。体調も少しずつ良くなって来たし、たまには気分転換も必要だからと、家族の心配もよそに出かけた。遅くならなければ大丈夫!。そう信じじて・・・。実はその頃の私には身体状態のタイムリミットがあった。シンデレラよりもかなり早い時間、夜8時には家にいないと危なかった。気温の変化か、何のせいか分からないけれど、夕方から徐々に身体が固まり始め、夜の8時には完全に動かなくなってしまっていた。 さて、クリスマス会も終わり、帰ろうかな〜と思ったら、お茶に誘われた。時計を見た。6時。う〜ん、どうしようかな。ちょっと考えたけど、一時間くらいで帰ればギリギリ大丈夫・・・。その考えが甘かった!帰りの電車を待っていた時、時計を見たら、8時をまわっていた。・・・「やばい!」タイムリミットを切ってしまった。どうにか持ちますように!・・・そんな願いも虚しく、次第に身体の異変が起き始めていた。ギギギ・・・とうとう私の身体の油が尽きてしまった。身体が震え始めて来たと思ったその時、駅の切符売り場に倒れ込んでしまった。 私の突然の異常な状態に右往左往するろう者たち。一応頭だけは回るものの、身体がまったく自由が利かない。悲しくて情けなくてどうしようもなかった。その場にいた方々は皆ろう教会の信徒だった。どこの誰だか分からない新参者の私を手厚く介抱してくれた。寒いのに自分の上着を脱いで私に着させ、手袋をはずして私の手にはめ、私をおぶり、暖かい場所まで連れて行ってくれ、ホットミルクを注文して飲ませてくれた。傍にいて一生懸命私を励まし、背中をさすってくれた。 身体が温まって来た頃、再びおぶって電車に乗らせてくれ、私の家がある駅で皆が電車を降りて、タクシー乗り場まで行き、乗せてくれた。家まで送ると言って聞かなかったが、そこまで迷惑はかけられないからと、どうにか申し出を断った。人数はハッキリ覚えていないが、7〜8人いた ろう者が皆、心を一つにして私をこのように介抱して下さったのである。「良きサマリヤ人」、まさしく彼らの行いは「行いの信仰」そのものだったと思う。 この時の事を思い出す度、心が熱くなる。私が彼らに出来る恩返しは何だろう。手話を通して神様の御言葉を伝えることではないだろうか。早く元気になろう。そして、一人でも多くの人に御言葉を伝える者になりたい。「神様、どうか、私を早く回復させて、もう一度神様の御わざの為に用いて下さい。」と切に祈った。
「病いにあったことは、わたしにとって幸いでした」 まさしく、これが私の今の心情。 「まず第一に神を愛せよ。第二もそれと同様である。神を愛し、そして自分を愛するように隣人を愛せよ。」黄金律法! 病気になって、最も心配させたのは、他でもない家族。私は最も身近にいる隣人(家族)を大切にする、つまり愛するという事を怠っていたのではないか。それに、「自分を愛するように」との前提があって、その上で「隣人を愛せよ」とある。でも、果たして私は自分を愛していただろうか。答えは、「No!」。 手話に携わり、手話通訳を行う者にとって、「ろう者」の存在は外せない。だからいつも ろう者の事を考えていた。少しでも長く、たくさんの御言葉が学べるように。周りの状況をきちんと把握できるように。皆との交わりに加われるように。情報がなくて寂しくならないようにと、常に気を配って来た。だから、多少疲れていても無理をして来た。身体が悲鳴をあげていても無視した。ろう者の為だからと。まったく、ただの自己満足である。 神様が彼らを養って下さるというのに、私がろう者を養わなくてはなどと考えていたのだろうか。今考えてみたら、私の行って来た事はそういう事だったと思う。神様に頼る事をせず、自分の力に頼っていた。神様は病いを通して、私にその事を教えて下さったのだと思う。先ず、神様の御言葉に従うこと。そして、自分を大切にする事。そして、家族を大切にし、そして、隣人を愛する事。神様がすべての人を等しく守ってくださる事を信じること。神様より自分が先に出しゃばってはいけない事。牧師の命令に従順すること。教会の兄弟姉妹を信頼する事などなど、今回の病いを通して、私が学んだ事の如何に多い事か。 これらの事が、少〜しずつ分かるようになって来はじめた頃、それまで私を苦しめていた様々な症状が徐々に薄れていった。ほ〜んと不思議!!!ハレルヤ! 現在、が所属している教会の ろう者の他に、ろう教会の牧師先生もこの聖書の学びに加わっておられる。前の章で書いた「よきサマリヤ人」と同じ群れの教会の牧師先生である。私のつたない手話で御言葉を聞くよりも、神様の油注ぎを受けた方を通して、御言葉を受ける事の方が、どんなに ろう者にとって幸いな事か。あの時、彼らに御言葉を伝えさせてくださいと祈った祈りに神様は、このような形で答えて下さったのだと思う。 自分の力に頼る事を止め、神様の力に頼るなら、神様は万事を益として下さるという事を、病いを通して教えられた。だから、「病いにあった事は、わたしにとって幸いでした」と心から言う事が出来る。まだまだ、不完全なは、また懲りずに失敗を犯すかもしれない。でも、この恵みを忘れさえしなければ、また神様を信じ続ける事ができると確信している。このページは、かれこれ10年以上かけて、ここまで辿り着いている。これから先も、ここに恵みの証しを載せ続けたいと思う、手話歴16年目の春でした。
「愛する姉妹との別れ」 『わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。』 ヨハネによる福音書 15章5節
2010年6月25日(金)、これまで一緒に信仰の道を歩んでくれていた愛する一人の姉妹が神様に召された。彼女は難聴だった。 姉妹(M・Sさん)と初めて出会ったのは13年くらい前、が教会で つたない手話通訳をはじめた頃の事だった。このページの始めのあたりに書いてある、最初の頚肩腕症候群の症状が起り始めたころに導かれた ある集会で、たまたま自分の体の状態を話したところ、集会が終わった後で親切に話し掛けてくれたのがM・Sさんだった。「体に気をつけてね。無理をしないでね。」と初めて会った私の体をたいそう心配してくれた。それから後、数年に一度のわりで、集会や修養会などでばったり会う機会があった。 その後、お互いのFAX番号を教え合って、年に数回交わりを持つようになり、それから約10年の間、ゆっくりゆっくりと距離が縮まっていった。ある時、彼女がくれた手紙の中にこんな文章が書いてあった。「おばあちゃんになっても友だちでいようね。」と。本当に、おばあちゃんになっても、会って神様の話しができると思っていたのに・・・。 M・Sさんは、いつでも命の御言葉を慕い求めていた人だった。彼女とは、住む県が違うため、会うのはいつも中間地点・・・であるべきだけど、彼女の方が30分くらいよけいに電車に乗って来てくれた。お互いクリスチャンという事から、話題は終始、聖書の話し、信仰の話しだった。いつも大きなカバンに聖書を入れて(他に何が入っていたんだろう・・・旅行バックのような大きさだったけど・・・。)、ニコニコしながら待ち合わせ場所に立って待っていてくれた。彼女とのコミュニケーション方法は手話オンリーだったから、最初、慣れない読み取りに汗だくだった。その上、地域による手話表現の違いや、教会の教派による違いもあったから、焦りまくった。 M・Sさんとの距離が一気に縮まったのは、昨年の春頃から。年に数回会ってた関係から、一週間に2回会うようになった。それまで地元の教会に通っていた彼女が、私の所属教会の礼拝に通うようになった事がその理由。彼女の心の中にどんな葛藤があったのか、詳しくは知らない。彼女は聖書の話し以外、多くを語らない人だったから。ただ、あれほど熱心だった人が教会に行かなくなり、礼拝を欠席するようになった。信仰の試練の中で苦悩している彼女に、「神様から離れてはいけないよ。」と励ます以外に術はなく、簡単に「私の教会に来てみる?」とは言えなかった。何せ、私の所属教会は更に遠い場所だったから。 でも、ある時、「さんの教会の礼拝に出席しますので、通訳をよろしくお願いします」とメールがあった。その時以来、M・Sさんは、ほぼ一年間、休む事なく往復6時間近くかかる距離を通い続けた。耳が聞こえないというハンデを抱えながらも、誰よりも遠くから礼拝に集う彼女に対し、牧師をはじめ、教会の皆が励まされた。「あなたが家を出て、教会で礼拝を捧げて帰宅するまでのすべての時間を、神様はあなたが捧げた礼拝として受け取って下さいますよ。」と牧師が言い、道中の安全を祈っていた。 彼女は日曜日の礼拝だけではなく、毎週木曜日に開かれている聖書の学び会にも熱心に出席していた。今、思えば、これらすべてが神様の導きだったと思う。神様は、一年後に彼女を待ち受ける人生最大の試練に立ち向かう為に、前もって、信仰の武具を備えさせて下さったのだろう。 そんなM・Sさんが体調不良により礼拝を欠席するようになったのは、今年3月のはじめ頃だった。実は昨年の末頃から彼女の体調があまりよくなかった事をは知っていた。それでも、毎週の礼拝や学びに欠かさずに集っていたから、さほど深刻に考えていなかった。いよいよ礼拝出席が難しくなった頃、検査の結果を受けて4月はじめの週に、手術を受ける事が決まった。手術の前日、病室で一緒に祈った。退院して元気な彼女に戻る事を、教会全体が信じて疑わなかった。 ところが、術後の検査の結果、思ってもみなかった病名が告げられた。『子宮肉腫』、悪性ガンの一種だった。肉腫となった子宮をすべて摘出したが、肺や骨に転移したら、抗がん剤、放射線治療は一切効かない病いだと告げられた。病いの完全な癒しを求め、教会あげての『40日間連鎖祈祷』が始まった。一人づつ順番に断食しながら祈った。牧師婦人にいたっては、自分の病いをおして10日間の断食をして祈ってくれた。牧師は、毎週礼拝後に彼女の家を訪問し、共に讃美し、御言葉を語り、祈り、励ました。毎週木曜日には、牧師と教会の姉妹たちと共に、彼女の家を訪問し、共に祈り、御言葉の交わりをした。何故ならば、彼女自信、御言葉を聞く事を何よりも求め、楽しみにしていたから。 5月の中頃、牧師のもとに、M・Sさんから以下の祈りの言葉がメールで届けられた。
M・Sさんが亡くなる一週間前の事、彼女が病いに伏してからずっと祈り、励まして下さっていた、ろう者の牧師先生が、病室で彼女と会話した時の様子を伝えて下さった。 また、M・Sさんが亡くなる前夜、彼女の友人が病室を訪れた時、ほとんど意識のなかった彼女が一瞬、意識がハッキリとして、手話で友人たちに語ったと言う。 キリスト教式で行われた葬儀には、本当に大勢の人が参列した。「姉妹は、いつも命の御言葉を慕い求めていました。どんな時もイエス様に繋がっていた姉妹でした。」と、M・Sさんの信仰の証しが牧師によって語られた。多くの方々が、彼女の信仰のあり方に感動した事だろう。後日、日曜日の礼拝に出席したいと、M・Sさんの友人が数名、の所属教会に来られた「彼女が、あれほどまでに熱心に通っていた教会に行ってみたい」と言って。また、しばらく信仰の道から離れていた友人たちが、「M・Sさんが通っていた教会に行ってみたい」と話しておられるという。 と、M・Sさんとの交わりは通算13年続いた。共に祈り、学び、笑い、泣き、時には喧嘩もしながらお互いの信仰の成長をはかってきた。最後の一年は、共に深く、命の御言葉を分かち合えた。最後の3ヶ月は、13年間が圧縮されたような交わりの時だった。最後の一週間は、互いに信頼し、心でつながった。そして、亡くなる前日、笑顔で「またね」と言い合えた。その日、意識がもうろうとする中で、彼女が言った言葉を私は一生忘れないだろう。 このページにM・Sさんについて載せたのは、彼女の御言葉に対する情熱を一人でも多くの人に知ってもらいたかったのと、自身、彼女の事を忘れる事がないように、記録に残しておく為。そしてM・Sさんがの心の中に、そして彼女を知る多くの人たちの心の中に、永遠に生き続ける為。 ところで、あの大きなカバンの中には一体何が入ってたんだろう・・・
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