礼拝メッセージ
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2009年3月1日 加藤真喜男主事
ルカの福音書 11章1〜4節「主の祈り」
1月から、今年の教会のテーマである祈りについてのメッセージを、させて頂いています。皆様は祈りのメッセージを聞きながら、
どんな風に思われているでしょうか?みことばを通して、祈りについて考え、感じて頂ければ幸いであります。
皆さんは、私たちが祈りやデボ−ションを始める時、何のストレスもなく、行えると思われるでしょうか?私は、霊的に成長する
には忍耐が必要であり、更には誘惑があることを感じます。
ヤコブ1:2〜4を開いて下さい。
私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰が試されると忍耐が生じるということ
を、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、
成長を遂げた、完全な者となります。
更に、キリストが12弟子のうちのペテロと、ゼベダイの子ヤコブと、ヨハネの三人だけを伴って祈りに行った記事があります。
マタイ26章に書かれている、有名なゲッセマネの園での祈りです。イエスの額から、汗が血のしずくのように流れる程祈られた時で
した。
わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目を覚ましていなさい。
イエスは3年近く共に過ごした弟子たちにこう言っていました。しかし、この三人の弟子達はイエスが祈っている間、共に祈って
いられたでしょうか?残念ながら、こんなにイエスの近くにいて、訓練されていたと思える弟子たちでさえ祈っていることが出来な
かったのです。
弟子達には申し訳ないですが、私はこの弟子たちを見て、少しホッとします。弟子達も自分と同じだと思えるからです。しかし、
主は私たちが誘惑に負けて祈れないままではなく、成長することを願っておられるのです。祈りが如何に人生を歩む上で大きな武器
であるか、そして喜びであるか、一番知ってほしいのは神様だからであります。ですからキリストが天に上がられた後、今に至るま
で神は、御霊を送って下さり、愛情を持って私たちを訓練し、教え導いて下さいます。
では、私たちはどんな事を祈ればよいのでしょうか。キリストは私たちに「主の祈り」を教えてくれています。いつも礼拝で祈っ
ている主の祈りは、マタイの福音書に書かれているものです。今日はマタイだけではなく、ルカのバージョンの主の祈りを共に学び
たいと思います。
1節 さてイエスはある所で祈っておられた。その祈りが終わると、弟子の一人が、イエスに言った。「主よ。ヨハネが弟子たちに
教えたように、私たちにも祈りを教えて下さい。」
ここをパッと読むと、弟子達がどのように、祈れば良いか分からなかったために、イエスにどのように祈れば良いかと聞いている
ように思えます。しかし、彼らはユダヤ人であり、祈る民族なのです。バビロン捕囚以後、ユダヤ人は以前の失敗を元に、真剣に祈
り、更には聖書を読む民族になっていたと私は考えています。
つまりユダヤ人は、少なくとも現在の私たちよりは祈りに精通していたと言えるでしょう。とすると、何故ユダヤ人であった弟子
の一人が、イエスの元に来て祈りを教えて下さいと言ったのでしょうか?
それは、恐らくイエスが祈っている祈りが、自分達の祈りと違うと思ったからではないでしょうか。いや、今の私たちが、どうす
ればイエスのように父なる神との人格的な交わりを持てるのか、また神の素晴らしさを知り、神中心の生き方が、どうすれば出来る
かを知りたいと思うのと同じだったのではないでしょうか?つまり深くそして喜びに満ちた祈りをしたいと思ったのでしょう。いや
祈りの奥義を教えて欲しいと思ったのでしょう。
恐らくは、私たちもイエスの近くにいたら、あのイエス様のように祈りたいと思って、イエス様にどうか祈りを教えて下さいと頼
むのではないでしょうか。
@ 御名が崇められます様に A御国が来ますように B糧 C罪 D試み です。
@ 御名が崇められます様にと、A御国が来るようには、神に対する祈り
B糧 C罪 D試み は自分たちのための祈りである事が分かります。
2節 父よ御名があがめられますように。御国がきますように。
御名があがめられます様にとはどのような意味でしょうか?これは、ただ神ご自身がほめたたえられ、神に栄光が帰されるよう
に求めることです。私達が神ご自身を賛美しほめたたえることが出来るようにという求めであります。
まず第一に、キリストがこの様に教えたということは、まず祈りは、神様に対する賛美から入る必要があるということです。
この順序の中にも学ぶべき点があるのです。少なくとも私の祈りは、教会や人々の必要や、自分の必要ばかり祈っているという現
実を思わされます。キリストが教えて下さったように、何よりも先ず神の栄光を褒め称える祈りをする必要があるのではないかと
反省させられます。
この「みながあがめられますように、」の「あがめる」には、ギリシャ語の「ハギオス」という言葉が使われています。「ハギ
オス」とは「聖なるものになる」という意味の言葉です。つまり直訳すると、「あなたの御名が聖なるものとされますように。」
となるのです。御名とはもちろん神の御名であります。聖書で名とは、“その人自身”を表します。
ですから、御名があがめられますようにと祈る時、神ご自身が聖なるものとなりますようにという、祈りであります。しかし、
聖書をみると、神様ご自身も、その御名もすでに聖であることが分かります。
レビ記19:2 「イスラエル人の全会衆に告げて言え。あなたがたの神、主であるわたしが聖であるから、あなたがたも聖なる者
とならなければならない。
これ以外の聖書箇所でも神様はご自身の事を聖であると言っておられます。何故イエスはこの様に、祈るように教えられたので
しょうか?それは、本来聖い、神の御名とご人格が、人間の中でいつの間にか勝手におとしめられているからではないでしょうか。
私たちが祈りの中で、神の御名、神ご自身が聖なるものとされますようにと求めるのは、祈る者が、本当の神様の聖さを正しく
認識できますようにと求める事なのです。
これは私達が主を知り、その御名が本当に聖いということを、御霊によって知らせて頂く必要があると言うことです。聖書を読み、
祈り、信仰生活を送る中で神との人格的な歩みをしていく中で神の聖さを認識する事ができるようになります。キリストは、この様
に聖い神を知れますように“主の祈りの頭で”祈る様に仰っているのです。
A 御国が来るようには、とはどういう意味でしょうか?
この「御国」と言う言葉はギリシャ語で「バシレイヤ」と言われ。「支配」とも訳せる語です。つまり「御国が来ますように」と
は、言い換えると「神のご支配が来ますように」と言う意味であります。
つまり、祈りの中で私たち人間の支配ではなく、神の支配を求めるのです。この支配には二つの意味があります。
一つ目は、信仰者がこの世で歩む中で与えられる神の支配のことです。私自身の内に神の御霊が働いて下さり、サタンの支配では
なく、神の支配に移され、主の御心に従う者とされることを求め続けていく祈りであります。つまり聖化の歩みです。
そしてもう一つは、完全な新天新地での神の支配であります。
黙示録21:4 彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のも
のが、もはや過ぎ去ったからである。」
終わりの時に来るのは、まさに全てが神の支配の中にもう一度戻される時代です。私達はキリストが再び来られる時の、この支配
を求めて主の祈りを祈っているのです。これは栄化の事です。
B 私たちの日ごとの糧を毎日お与えください。とはどういう意味でしょうか。
私達は、自分達のその日の必要をここで求めるように言われているのです。私達は直に、先々のことを心配して、必要を祈ります。
しかし、主の祈りが教えるのは、その日その日の必要を求めることだと覚えたいと思うのです。皆様は、どう思われるでしょうか?
先々の物を欲しくならないでしょうか?私は一年後も二年後もいや死ぬまで、ずっと私の生活が安定することを望んでしまいます。
私以上に社会一般は安定を求めるのではないでしょうか?年金は老後の保証であり、その際たるものです。またファイナンシャルプ
ランナーは、生涯かけての最良のプランを提供してくれると言います。私達は先へ先への安定を求めたくなるのです。しかし、キリ
ストは日毎の糧を毎日与えて下さいと祈るようおっしゃるのです。
箴言30章7〜9節にはその説明となるような事が書かれています。
30:7 二つのことをあなたにお願いします。私が死なないうちに、それをかなえてください。
30:8 不信実と偽りとを私から遠ざけてください。貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で私を養ってください。
30:9 私が食べ飽きて、あなたを否み、「【主】とはだれだ」と言わないために。また、私が貧しくて、盗みをし、私の神の御名を汚
すことのないために。
この箴言の作者は本当に賢いなあと思います。私は思うのです。必要な物が与えられすぎると、人間は神に頼る事がなくなるからです。
この箴言は、父であるダビデ王の姿を、ありありと見る中で、ソロモンは書いていたのではないでしょうか?
人生の前半、最も困難であった時のダビデ王は全く主に委ねる人でした。しかし、そのダビデでさえ人生の後半、人生の絶頂期以降は、
一気に神中心の人生から落ちたのです。忠実な家来の妻バテシュバを横取りし、高ぶって自分の力を誇示するために人口調査をしました。
ダビデは自分の力に過信し始めた時から、人生が、全く変わってしまったのです。皆さんもそうならないように気を付けて下さいと言
っている、ソロモンの言葉が聞こえてきそうです。
そして主キリストも、先々の食事ではなく、毎日毎日の糧を求めるようにと教えてくださるのです。それは主に委ねた人生であり、主の
御手が分かる人生だからです。もちろん、皆様にその日暮しの貧しい暮らしを勧めている意味ではありません。思い煩いから解放され、主
に委ねた人生を求める中で、日ごとの糧を与えたまえという祈りが口に上るように教えられているのです。
C 罪についてです。もう一度4節読んでみましょう。
11:4 私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負いめのある者をみな赦します。私たちを試みに会わせないでください。』」
この箇所を読んで思わされるのは、私たちが罪を赦されているという事実なのです。神の前にどこまでも私達は、罪を犯してしまいま
す。ここで言われている罪とは、私たち人間の基準の罪ではありません。ローマ1:29〜32にはこの様にあります。
彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口
を言う者、そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、わきまえのな
い者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。彼らは、そのようなことを行えば、死罪に当たるという神の定めを知って
いながら、それを行っているだけでなく、それを行う者に心から同意しているのです。
このリストを読むと、これは私の姿だと思わされるからです。そしてこの自分の罪を示される中で、私はこれ程の自分の罪を神様が
赦して下さるなら、私は他の人の罪を赦しますと言いたくなります。言いたくなるのですが、自分が他人を赦すのは、ものすごく難し
いと本当に思います。
しかしキリストは、神に私たちの罪をお赦し下さいと祈るように、更に私達も私たちに負い目のある人を皆赦します。と祈るよう教
えます。そのように祈ることを願われ、求められているのだと言う事であります。
詩篇には、このような祈りがあります。
詩篇32:5 私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。「私の背きのつみを主に告白しよう。」
すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。」
私たちの罪を主に告白する時、キリストの犠牲によって私たちの罪は、赦されるのです。いつもこの恵みから目を離さず、人の負い
目を赦す者に変えて下さるように、御霊に導かれていきたいのです。
最後にD試み を見てみましょう。
私は良く、メッセージの中で、父なる神は子である私たちの信仰を成長させるために、試練をお与えになると、ヘブル12章から話を
させて頂いています。
この「試練」という言葉は、ギリシヤ語で「ペイラスモス」であり、「悪に誘惑する」という意味もある言葉です。そしてキリスト
はこの悪に誘惑されるような事が無いようにと祈るように教えられました。
神は試みを通して、私たちに神により頼む信仰が成長するよう導いて下さいます。キリストも荒野で40日間サタンの試みに会われま
した。
けれども、好んで悪の方に行き、悪に誘惑され、罪に陥ることはよしとされないのです。私たちが無防備でいるなら、サタンの思う
つぼです。いつも目を覚まして祈り、むしろ試みに会わせないで下さいと求める備えが必要なのです。
ここまで主の祈りを見てきました。今日はそのほんの少しだけお話しさせて頂きました。4月から講解説教に戻りますので、その時に
もう一度、今度はじっくり主の祈りを学びたいと思います。私達が毎週祈っている主の祈りは、とにかく内容が深いのです。
そして主の祈りの中心は神との交わりであります。まずは神を知る事、そして神の支配にゆだね、毎日の必要を祈る事、罪の赦しを
求める事、そして神の守りを求める事です。
これらの祈りが私達を、更に神と共に歩む人生へと導くでしょう。私を含め、お一人お一人がこの主の祈りを祈る事が、喜びで満ち
ていくことを願います。お祈り致します。