すべては神様の導きのままに

私たちの父祖の神、主はほむべきかな。主はエルサレムにある主の宮に栄光を与えるために、このようなことを王の心に起こさせ、王と、その議官と、すべての王の有力な首長の好意を私に得させてくださった。私の神、主の御手が私の上にあったので、私は奮い立って、私といっしょに上るイスラエル人のかしらたちを集めることができた。
エズラ7:27-28

エズラ記に入りました。エズラ記、ネヘミヤ記はもともと一つであったと言われています。列王記、歴代誌の終わりで、ユダヤの民は国を失って、バビロンへ連れていかれました。その後、バビロン捕囚という苦しい期間を通りますが、もともとの神様の計画通り、ユダヤ人たちはバビロンからエルサレムへ帰ってきます。バビロンからの帰還がエズラ記、ネヘミヤ記の主題です。エズラ、ネヘミヤを見ますと、バビロンからの帰還とは、単に引っ越しをするというだけのことではありませんでした。神殿の再建と、真の神様への信仰の回復という民の心の内面も変革されなければいけませんでした。

エズラ記の前半は、ゼルバベル率いる第一次帰還民のお話です。この時にはエズラはまだ出てきていません。7章に入り、エズラが登場します。そして7:27からは、「私」という一人称の言葉が使われて、まるでエズラ本人の日誌のように書かれています。このような書かれ方はネヘミヤ記も似ています。

エズラ記とネヘミヤ記は「私」という言葉が使われていることも似ていますが、7:28にあるような、「主の御手が私の上にあった」という表現に見られるように、神様の導きに感謝しながらことを進めている様子も似ています。エズラ記7:1によると、ペルシャの王はエズラの願いを聞き入れたという事が書かれています。エズラはペルシャである程度の地位があり、王に願い出ることができるような立場だったようです。エステル記などを見ますと、ペルシャでの王の権限はとても大きな絶対的な物でした。ですから、エズラは決して強引な要求はせず、ペルシャの王と平和を保ちながら、ことを進めようとしていたようです。それはエズラがこの世の権力社会にすっかりはまってしまっているからというわけではなく、7:27にあるように、神様は、ペルシャの王の心を用いることができるからという確信の故でした。ペルシャの王がどんなに大きな力を持っていたとしても、神様はそのペルシャの王をも従わせることができます。神様は預言者を通して、ユダヤの民をエルサレムに帰還させることを約束してくださっていました。エズラはその約束を信じて、神様のタイミングを待っていたのだと思います。そしてそのタイミングが訪れた時には、エズラはまず神様に感謝をささげています。「私たちの父祖の神、主はほむべきかな。」

このことは、現代に生きる私たちにも通じるものがあると思います。確かに神様は、全ての人が神様を求めるようになることを願っておられます。そのために私たちをも用いてくださるかもしれません。しかし私たちは、自分の力で強引に事を進めようとせず、神様のタイミングを祈り待ち望む必要があります。すべては神様の導きのままにというエズラの姿勢を見習いたいと思います。そうすると自然と肩の力が抜け、のびのびと信仰生活を送ることができると思います。また神様の背後の働きにもすぐに気づくことができ、喜びをもって感謝をささげることができると思います。

お祈りの課題
  • 昭島教会に集う方々、ご家族のために
  • 7-8月に新しく来られた方々、久しぶりに来られた方々のために
  • 避難訓練、伝道礼拝のために
  • 青年運動会、教団創立記念礼拝のために
  • 青梅教会のために