神様が敵を断ち切られた

彼らは 私が若いころからひどく私を苦しめた。しかし 彼らは私に勝てなかった。耕す者たちは私の背に鋤をあて 長いあぜを作ったが。」主は正しくあられ 悪しき者の綱を断ち切られた。
詩篇129:2-4

詩篇129篇は、神様がイスラエルを敵から救って下さったことを感謝している歌です。この詩篇は個人的な歌、私と言う個人と、私を苦しめるいじめグループと捉えることもできますし、もっと大きな規模で、イスラエルという国全体と、イスラエルを苦しめる周辺諸国と捉えることもできます。大きな規模で捉えるのであれば、敵がイスラエルを苦しめていた、それもイスラエルが小さかった頃から、敵がイスラエルを苦しめていたということが語られています。イスラエルは元々、エジプトで奴隷であった民であり、決して力も強くありません。イスラエルの周辺諸国はイスラエルを弱い格好の標的と見なしました。そしてイスラエルに攻め込んだのです。しかし神様はその度に不思議なようにイスラエルを守られました。詩篇129篇はその感謝を神様に歌っています。

11月初めに終了したラグビーワールドカップは南アフリカが優勝しました。トライを決めて得点した時や、試合後優勝が確定した時、南アフリカの選手たちが神様に感謝して天を仰いでいる姿はとても印象的でした。南アフリカの選手たちは、自分たちの勝利が神様の助けによるものであると信じているのだと思いました。何か良い結果を得た時、それをどう受け止めているのかによって、私たちが何を基盤として生きているのかが分かります。もちろん、彼らがこれまで相当の訓練を積んできたことも事実です。たくさんの練習と、関係者たちの支えがあって優勝しました。しかしそれらも含めてすべては神様のおかげだと言えるようであれば、それは素晴らしい信仰だと思います。彼らは、自分の人生が神様によって支えられているのだということを証ししているのです。

私たちはどうでしょうか。自分たちの日々の生活が守られている時、それをどのように受け止めているでしょうか。あるいは誰かとても良い結果を得た時、その成功の秘訣は何であると受け止めるでしょうか。健康の秘訣は早寝早起きの習慣にあるのでしょうか。試合での勝利は地道なハードワークにあるのでしょうか。難関校に入学できたのはどれだけの時間、勉強したかで決まるでしょうか。人間的な努力は関係ないとは言いません。しかしその根底には神様の導きがあると確信している人は幸いです。

これは神様の恵みを恵みと捉えているかどうかとも関係があります。人間的な努力によって神様の祝福は獲得できません。もしそうなってしまえば、恵みが恵みでなくなります。十分祈ったから、強く信じているから、毎日聖書を読んでいるから、私たちは守られているのではありません。ただ神様のご意志一つで、私たちは守られています。神様の恵みによって守られているので私たちは信仰をもって感謝するのです。ですから信仰は常に神様の恵みの後にやってきます。信仰とは恵みを引き出すためのものではなく、恵みのゆえに信仰が引き出されるのです。信仰とは感謝だと言ってもいいのかもしれません。私たちが信じているから守られているのではなく、神様が守って下さるので私たちは信じて今日を歩むことができます。神様が常に変わらず、正しく、私たちを愛してくださるので、私たちはどんなときにも安心し、日々の生活に従事できるのです。

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もしも主が私たちの味方でなかったなら

「もしも 主が私たちの味方でなかったなら。」さあ イスラエルは言え。
詩篇124:1

歴史に「もしも」は無いと言います。起こってしまったことに対して、ああすれば良かったのか?こうすれば良かったのか?と考えても、過去を変える事はできないからと言います。ある意味でその通りかもしれません。過去に対していつまでも未練を感じていると、今を生きることが難しくなります。今後どうするかを考えるためには、未練を断ち切ることも必要かもしれません。しかし過去を全く振り返らない事も、同じくらい今後を生きるのが難しくなります。経験から何も学ばなくなってしまうからです。

詩篇124篇は、過去に対して「もしも」を問いかける詩になっています。『「もしも 主が私たちの味方でなかったなら。」さあ イスラエルは言え。(124:1)』と言って、「もしも」を問いかけることをイスラエルに推奨しています。「もしも 主が私たちの味方でなかったなら 人々が敵対してきたとき そのとき 彼らは私たちを生きたまま 丸呑みにしていたであろう(124:2-3)」と言います。過去を振り返り、私たちが今生きているのは、神様が守って下さったからだという事を再認識させようとしているのです。過去を振り返ることで、私たちが普段、当たり前のように感じていることが、実は当たり前ではないと発見する事ができます。私は今、当たり前のように服を着ていますが、考えてみると、最後に自分で洗濯をしたのはいつでしょうか?「もしも」妻が洗濯をしてくれなかったら、私は今、裸で過ごしていたかもしれません。妻に感謝すべきです。過去を振り返ると当たり前があたりまえでなかったことに気づきます。神様のお働きは時に、とてもジェントリーで、私たちが全く気づかない事があります。いやむしろ、神様のお働きのほぼ全てに、私たちは気づいていないのかもしれません。「もしも 主が私たちの味方でなかったなら」詩篇124篇は問います。すでに私たちは生きていないかもしれないのです。

詩篇124篇は過去に対して「もしも」を問うことで、私たちが気づいていなかった神様のお働きに気づき、神様への感謝を捧げようと歌っています。「ほむべきかな 主(124:6)」私たちが過去の神様のお働きに気づいていなかったのであれば、私たちは何と多くの神様のお働きに対して、感謝の言葉を述べてこなかったのでしょうか。何と多くの祝福を当たり前として受け取ってきたのでしょう。改めて神様に感謝したいと思います。

その上で詩篇124篇はこの神様に信頼して歩むことができる幸いをも語っています。「私たちの助けは 天地を造られた主の御名にある(124:8)」神様は今までも、私たちを助けて下さり、多くの祝福を与えて下さいました。そしてこれからも与え続けて下さいます。ですから私たちは今後、前向きに生きる事ができます。

過去に対して「もしも」を考えることは、いつまでも未練を残すことになる可能性もあります。しかし今まで気づいていなかった主のお働きを発見する機会にもなります。主のお働きを発見できたならば、私たちは主に感謝したいと思います。そして、主に信頼し、今後を前向きに生きていきましょう。

お祈りの課題

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神様の愛で愛し合う

わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。
ヨハネ15:12

ヨハネ13~17章には、最後の晩餐での出来事が記されています。イエス様が十字架に架かられる前の晩、イエス様は弟子たちと過ごされました。弟子たちはこの後、何がおこるのか全く知りませんでしたが、イエス様はご存知でした。「イエスは、この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知っておられた。そして、世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された(ヨハネ13:1)」と記されています。イエス様は神様の愛を示すために来られた救い主です。神様が、イエス様がどれほど私たちを愛しておられるか示すために来られました。最たるものが十字架です。その十字架の意味を、イエス様は最後の晩餐の席で語られました。

「人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません(ヨハネ15:13)」とイエス様は仰いました。世の中にいのちのよりも重いものはありません。一人ひとりのいのちは尊いもの、かけがえのないものです。つまりこの地上にある他の何物をもっても、いのちと交換できません。そのいのちを他の誰かのために使う事、それが最も大きな愛です。イエス様は私たちのために十字架に架かっていのちを落としてくださいました。私たちは自分の罪のために滅びに向かっていました。しかしイエス様が私たちの代わりにいのちを落として下さったのです。私たちが頼んだからではありません。イエス様のいのちは私たちの自由に使っていい物でもありません。イエス様が自らすすんで私たちのためにいのちを捨てられたのです。それはイエス様の私たちに対する愛です。いのちを投げ出すほどにイエス様は私たち一人ひとりのことを常に大切に思い、心にかけて下さっているのです。この愛を私たちは受け取っています。それも全く押しつけがましくありません。この愛を受け取るかどうかは、私たちの自由意志に委ねられています。クリスチャンはみな、このイエス様からの最高の愛を感謝して受け取った人たちです。

イエス様は続けて仰いました。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです(ヨハネ15:12)」この言葉をイエス様はもう一度繰り返しています。「あなたがたが互いに愛し合うこと、わたしはこれを、あなたがたに命じます(ヨハネ15:17)」私たちはイエス様の最高の愛を受け取りました。いのちをも投げ出してくださる愛を受け取りました。イエス様が望んでおられるのは、私たち一人ひとりも、同じように互いに愛し合う事です。お互いのことを気にかけ、大切に思うことです。自分の時間を割いて他の人のために用い、時にはいのちを投げだすこともあるかもしれません。それもイエス様のように押しつけがましくなく、相手の自由意思を尊重し、十分に配慮しながら支えていくことです。

このような愛は私たちの内に初めから備わっているものではありません。イエス様が十字架に架かって下さり、私たちを愛して下さり、聖霊を送って下さったので、できることです。ですから私たちはまずイエス様の愛をしっかりと受け取り、聖霊なる神様を自分の内に招いて、神様の愛に満たされて歩みたいと思います。

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「父」と「子」の深い信頼関係

わたしの父がわたしに与えてくださった者は、すべてにまさって大切です。だれも彼らを、父の手から奪い去ることはできません。
ヨハネ10:29

 

私たちが信じている神様は、三位一体の神様です。ただおひとりの神様です。しかし今日はあえて、三位を区別して考えてみたいと思います。ヨハネの福音書でイエス様は、父なる神様とご自身とが別々の存在であるかのように話されます。もちろん、「わたしと父とは一つです(10:30)」と話され、三位一体のおひとりの神様であられることも強調されています。ヨハネの福音書でイエス様は、父なる神様のことを「父」と呼び、「父」がどう考えておられるか、そしてイエス様ご自身がそれをどう受け止めておられるかというように話されます。父なる神様がイエス様を救い主として世に遣わされたので、イエス様は父なる神様に従って世にやって来たという言い方をされています。イエス様は父なる神様とご自分を区別されているのですが、イエス様はとても深く父なる神様を信頼しておられ、父なる神様が行うことは全て良い事であると固く信じており、忠実に従っているのです。

これを良く表しているのが、「わたしは羊の門です(10:7)」という表現ではないでしょうか。イエス様はご自分が人々の救いのためのゲートに過ぎないかのような言い回しです。イエス様が望んでおられるのは、羊たちがご自分を通って、父なる神様の許へ行く事なのです。父なる神様が本当に深く人々を愛しておられ、人々にご自分の許へ帰ってきて欲しいと望んでおられます。そしてそのために、父なる神様から大事な使命を預かったイエス様は、良い牧者として羊たちのためにいのちを捧げるのです。父なる神様が本当に深く私たちを愛しておられるので、イエス様は「わたしの父がわたしに与えてくださった者は、すべてにまさって大切です。だれも彼らを、父の手から奪い去ることはできません。(10:29)」と仰います。まさに「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3:16)」という御言葉の通りです。この父なる神様の願いを受けて、イエス様は十字架で私たちの罪のために命を落として下さいました。

この父なる神様の人々への愛をイエス様は共有しておられます。深く父なる神様を信頼し、父なる神様の思いの全てを同じように共有しているのです。今日はあえて、父なる神様とイエス様を区別して考えてみましたが、最終的には父なる神様とイエス様は切っても切り離せない深い関係によって結ばれているのだという結論に至ります。父なる神様の思いの全てをイエス様が深い信頼をもって受け取り、一致しているのです。三位一体の神様はこのような深い愛情と信頼によって結ばれています。私たちが神様の愛を受け取る時、私たちもこのような深い関係に結び付けられることを神様は願っています。神様がどれだけ私たちを愛しておられるのかと知りたいと思います。そして私たちもイエス様のように神様に深い信頼を寄せたいと思います。神様がどのように人々をご覧になっておられるのかを知り、神様が私たちに今して欲しいと願っておられることを忠実に行っていきたいと思います。

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神様からの信頼

また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子に委ねられました。
ヨハネ5:22

ヨハネの福音書を開きました。新約聖書の中に、イエス様の地上でのご生涯(公生涯)を記録した福音書は4つあります。それぞれがそれぞれの角度の視点から、イエス様を証ししています。中でもヨハネの福音書は他の3つの福音書には記されていないお話も多く、独特な雰囲気を持っています。

ヨハネの福音書には、イエス様と人々、特に律法学者たちとの議論が詳しく収録されています。私自身はとても忘れっぽい人間ですので、ヨハネはやり取りの詳細をよく覚えていたなと驚きます。このヨハネの福音書のイエス様と人々との議論のおかげで、イエス様の救いの詳細、神様の思いが伝わってきます。

ヨハネ5章は前半にベテスダの池での癒しのお話が記されています。当時ベテスダの池には言い伝えがありました。時々天使が降りて来て水面が動き、その時に最初に池に入った人の病が癒されるというものでした。ベテスダの池にはたくさんの人が癒しを求めて集まっていました。イエス様はそのうちの一人、38年も病気にかかっている人に目を留められました。イエス様はその人に「床を取り上げて歩きなさい。」と仰いました。その人はすっかり癒されて、床を取り上げて歩きました。神様の奇跡です。ところがその日が安息日であったため、イエス様はユダヤ人たちと議論になります。安息日には物を運んではならないという決まりがあったからです。そこで安息日に物を運んでも良いと言うイエス様、また議論の中でイエス様は神様のことを「父」と呼びますが、それもユダヤ人たちは引っ掛かり、イエスは一体、何者かという議論になります。

聖書を読んでいる私たちとしては、何かとても的がズレた議論をしているのではないかと思います。イエス様が行われた癒しの奇跡はどこへ行ってしまったのだろうかと思います。イエス様はこの議論の中で、イエス様ご自身が神様から遣わされた独り子であること、救い主であることを証しします。イエス様を信じれば永遠のいのちを受けるという事を証しします。教会でもイエス様は私たちの救い主ですと聞きます。イエス様を信じれば救われますと聞きます。そう聞いて私たちは、信じる根拠を探そうとします。しかし信じる根拠は必ずしも理屈ではないのではないかと思います。どういう仕組みで私たちがイエス様を信じることと、私たちが永遠のいのちを受けることが繋がるのかという理屈で信じるのではないと思います。私たちがイエス様を信じる根拠は、イエス様が私たちをどのようにご覧になっているかという信頼関係にあるのではないかと思います。

5章のイエス様の議論を読むと、イエス様と父なる神様の温かい信頼関係が見えてきます。父なる神様がどれほどイエス様を信頼し、イエス様がどれほど父なる神様を信頼しているかが見えます。そして同時に私たち一人ひとりに対しても、信頼に基づいた自由を与えて下さっていることに気づきます。ヨハネ5:22には「父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子に委ねられました。」とあります。これは議論全体を読むと分かる事ですが、イエス様がだれにいのちを与えるか、与えないか決めるという意味ではありません。イエス様を指標として信じる人はいのち与えられ、信じない人はいのち与えられないという意味です。つまり父なる神様も、イエス様も、だれをさばくか選ぶという権利を放棄しておられるのです。救いを受けるか、受けないか、私たちは自由に選ぶことができます。これは父なる神様がイエス様を信頼し、私たちを信頼している結果です。最近、どこかで「信じても裏切られるかもしれない。しかし信じなければ決して信じてもらえない。」という言葉を聞きました。父なる神様は私たちを救いたいと願っています。だから私たちに神様を信じて欲しいと願っています。そのため、神様はまず私たちを信頼して、選ぶ自由を与えて下さいました。私たちも神様を信じたいと思います。

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