心の中からの偶像

こうして、偶像のゆえにみなわたしから離されてしまったイスラエルの家の心を、わたしがとらえる。
エゼキエル14:5

今日の聖書通読箇所はエゼキエル13-14章です。イスラエルの民に対して神様からの痛烈な批判が続きます。特に13-14章では預言者たち、長老たちが名指しされています。イスラエルの民の中にあって、神様の導きを仰ぎ、民に伝える重要な役割を担っていた人たちです。彼らは神様の本当の心を求めず、偽りの言葉を民に伝えていました。そして、その偽りの言葉を心から信じて、実現する日を待ち望んでいたと書かれています(13:6参照)。自分で偽りを語りながら、その偽りが実現するのを待ち望むというこんなことおかしな事があるのでしょうか?

14章には「これらの者たちは自分たちの偶像を心の中に秘め(14:3)」という言葉が出てきます。偶像とは必ずしも形のあるものではありません。桜ヶ丘教会の星加師は「偶像とはまず人の心の中に生まれ、それが世の教えやいわゆる形ある偶像とマッチして、偶像崇拝に至る」と説明していました。英語で偶像のことをIdolと言います。アイドルという言葉は日本では歌や容姿などを売りにしている芸能人のことを言います。日本でいうアイドルとは人間という存在の中から、理想としているもの、こうだったらいいなとあこがれている部分だけを切り取って売りにしているもののことを言います。この精神が偶像崇拝と似ているので英語で偶像を意味するIdolからアイドルという名前が生まれました。偶像崇拝とは神様というイメージの中から、自分が気に入っている部分、こうだったらいいなと思っている部分だけを切り取って、それを神様ご自身と見なすことを言います。ですから偶像崇拝は必ずしも形ある者とは限りません。むしろ人々の心の中にある願望から形が生まれてくるのです。

12章の後半には神様の言葉は必ず実現するということが書かれていました。神様はご自身で語られたことを必ず実現する、真実なる神様です。しかし、イスラエルの民の中では神様は約束を果たされる真実な方ですという事だけが先行してしまいました。神様ご自身よりも、ビジョンは実現するという部分だけが切り取られて、偶像化されてしまっているのです。そして預言者たちはとにかく良い幻、良いビジョン、良い御言葉だけを探して、それを神様からの言葉として民に語り、自分も信じ切っていました。このような聖書の言葉を聞くと、自分は本当に神様ご自身を求めているだろうか、自分の願望を神様の言葉として受けとめていないだろうかと反省します。

神様はそのような偶像と神様との区別物できなくなっている民の目を覚まさせなければなりませんでした。イスラエル人たちのバビロン捕囚はそのためのものでした。荒療治ではありましたが、真の神様に立ち返らせることが目的でした。それは神様からの愛の行いでした。16章には神様がどれだけイスラエルの民を愛しておられたかが書かれています。神様は血まみれで捨てられていた赤子をイスラエルに例えました。その赤子を引き取って優しくキレイにしてやり、祝福して育てたのです。神様は父親のようにイスラエルに接しましたが、イスラエルは父親の中から自分の好きな部分だけを切り取って、それに心奪われていました。私たちもそのような偶像を心の中に持ちやすい者です。偶像ではなく、本当の神様を求めたいと思います。顔をしっかりと神様に向けて、本当の神様のお姿を悟らせて頂きましょう。

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鉄の壁を開いて

また、鉄の板一つを取り、それをあなたと町との間に鉄の壁として立てよ。あなたが自分の顔をしっかりとこの町に向けると、この町は包囲される。あなたがこれを攻め囲むのだ。これがイスラエルの家に対するしるしだ。
エゼキエル4:3

聖書通読はエゼキエル書になりました。昭島教会では昨年、礼拝でエゼキエル書を順番に学びました。エゼキエル書は預言者エゼキエルが神様から受けた預言を記したものです。エゼキエルは南ユダ王国の民が捕囚でバビロンに連れていかれた時に預言者として召され、活動しました。3~4章は、捕囚の地であるバビロンのテル・アビブ(現在のイスラエルのテル・アビブ・ヤッフォの名前の由来となっていますが、別の場所です)のケバル川のほとりで、エゼキエルが神様の召命を受けて、最初のユダの民へのメッセージを実行するように示されたことが記されています。

神様は4章でエゼキエルにエルサレムの町が包囲された時の様子のジオラマを作るように言われます。粘土の板にエルサレムの町を描き、それに対して塁を築き、包囲壁を作り、陣営を設け、城壁崩しを配備します。そしてそれに対して、エゼキエルは左脇を下にして390日、右脇を下にして40日、じっと身を横たえなければなりませんでした。町の中でこのようなことをしている人がいたら、どう見ても異常です。それを神様からのメッセージであると受け止める人、気が狂っていると受け止める人、様々な人がいたと思います。しかしこの行為はユダの民にとっては、つい最近起こった出来事を呼び覚ますものでした。ユダの民はバビロンとの戦争でエルサレムの町を包囲され、籠城戦になり、多くの人が食糧難で倒れ、生き残った人の半分はバビロン軍に打ち殺され、さらにそこから辛うじて生き延びた人の多くは野山で病と飢えに倒れ、ほんの一部の人がこうしてバビロンの町に強制的に連れてこられました。神様がエゼキエルに行わせたことは、ユダの民にとっては悪夢をフラッシュバックさせるものでした。

神様はエゼキエルにそのジオラマのエルサレムの町に対して、身を横たえるように言いました。左脇を下にして390日、右脇を下にして40日です。神様は1年を1日と計算してこの日数にしたと仰います。ジオラマに向かって横たわるエゼキエルは神様を表しています。つまり神様は約400年の間、イスラエル、ユダの国を離れず、見守り続けたのです。しかし神様はエゼキエルとジオラマのエルサレムの町の間に鉄の壁を立てるように言いました。鉄の壁があると身を横たえたエゼキエルからは町の様子がよく見えません。約400年の間、神様はイスラエルとユダのすぐ隣にいましたが、神様から国の様子が見えないようになっていたという事です。聖書では神様が見えなくなる、神様の御顔が見えなくなるというのは神様の見守りが無くなる、祝福がなくなるだけでなく災いが来るということを表します。これは大変なことです。ではこの鉄の壁は誰が、なんのために建てたのでしょうか。私はイスラエルの民が建てたのだと思います。神様はエゼキエル2-3章でイスラエルの民のことを度々「反逆の家」と呼びます。神様に逆らったのです。神様に見られたくはないことがあったので、鉄の壁を建てた。あるいは神様は必要ないとも考えたかもしれません。あるいは単に神様を忘れたのかもしれません。いずれにしても神様に対する反逆とは、祝福してくださるお方、見守って下さるお方と自分の前に鉄の壁を建てるという行為なのです。神様はこの壁を取り除くように私たちに求められます。黙示録3:20にはこ「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って…」とあります。その扉を設置したのは私たちです。神様との間にあると困る以外の何物でもないはずですが、私たちが建てたものです。何のために建てたのか、それは人それぞれです。それは鉄でできていて、とても頑丈で、神様はそれを壊そうとはなさいません。ただ戸の外に立ってノックしています。私たちがその鉄の壁を取り除いたなら、扉を開いたなら、私たちは神様の御顔を仰ぎ見る事が出来るのです。鉄の扉を開いて、今日も祈りたいと思います。

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神様の言葉の力

天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。
ルカ21:33

ルカの福音書21章で弟子たちはイエス様に終末の日にはどんなしるしが起こるのか質問しました。イエス様は弟子たちの問いに答えられました。ルカの福音書21章に記されている終末のしるしはどれも恐ろしいものばかりです。偽預言者が現れて、人々を惑わします。イエス様を信じる者たちは捕らえられて迫害を受けます。しかし捕らえられた時が、逆にイエス様を証しする機会ともなることをイエス様は教えておられます。また各地で戦争が起こり、飢饉や疫病、地震が起こります。太陽と月と星にしるしが現れ、海はあれ、宇宙が崩壊するのではないかとみな恐れると書いてあります。

イエス様はこのような出来事がいつ起きるのか、具体的な日付を示されませんでした。ですから私たちはそれが未来のことなのか、すでに起こっている事なのか分かりません。しかしそれがいつなのか分かっても私たちにはどうしようもないことをイエス様は示しておられます。現代では科学も進み、星の寿命がどれくらいであるのか、ある程度把握できるようになってきました。もしかしたらいつの日にか、天気予報のように、地球が崩壊する日を予知できるようになるかもしれません。しかしその時私たちに分かるのは、その日を避ける事が出来ない、だれもどこにも逃げ場所はないという事実です。私たちは今はまだこの世界はいつか無くなるだろうという漠然とした思いしか抱いていません。しかしいつという事が分かっても、解決策を見出すことは出来ないということです。イエス様はルカ21:26でこう言います。「人々は、この世界に起ころうとしていることを予測して、恐ろしさのあまり気を失います。」

イエス様は終末に関して、いつ起こるのかを探るのではなく、いつ起こっても構わないように、神様との関係を保っていなさいと教えます。終りの日の災いを避ける事が出来るのは、神様の力だけだからです。イエス様は言いました。「天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません(ルカ21:33)」言葉というのは何となく、地震や疫病や戦争の前には頼りなく感じます。私たちはどんなに話し合いで解決しようとしても、戦争が避けられなかった歴史を知っていますし、今でもニュースを見るたびに話し合いの無力さを感じながら生きています。言葉で災いを回避できるはずが無いと心のどこかで思っているのかもしれません。しかしイエス様は、たとえ天地が滅びても神様の言葉は消えないと言います。天地よちも神様の言葉の方が力があるのです。聖書は創世記の最初で、天地よりも先に神様の言葉があったことを示しています。天地は神様の言葉によって作られたのです。私たちは天地が滅びたら言葉は無くなるように感じていますが、聖書はそうは語っていません。むしろ神様の言葉によって天地が支えられていることを語っています。ですから私たちが終末に向けて備えるのは、神様の言葉を信頼することです。神様が私たちのいのちを支えると仰っているのであれば、それを信頼することです。ルカ21章の冒頭に登場するやもめはそれを心から信じていました。だから生活費の全部を捧げる事が出来たのです。私たちは天地万物に支えられて生きていますが、その天地万物を支えているのは神様の言葉です。

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どなたに祈っているのか

ですから、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っています。それならなおのこと、天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます。
ルカ11:13

 

ルカの福音書11章で弟子たちは、バプテスマのヨハネが弟子たちに祈りの言葉を教えられたように、お祈りを教えて下さいとイエス様に願いました。イエス様は弟子たちの言葉に答えて、主の祈りを教えられます。そして続けて父なる神様は、あなたがたの祈りに答えて下さるお方であると教えます。弟子たちは祈りの言葉を教えて下さいと願いました。当時、いろいろな宗教指導者がいました。そしてそれぞれが弟子を作り、グループを組んでいました。それぞれのグループには指導者が考えたオリジナルの祈りの言葉があり、弟子たちはその言葉で祈ることでグループに属していることをアピールしていました。イエス様はこれまで特に弟子たちに祈りの言葉を教えなかったようです。そこで弟子たちは自分たちのグループのオリジナルの言葉を下さいとイエス様に願ったのです。しかしお祈りとは本来、神様との会話です。どのような言葉で祈るかということよりも、誰と話しているのかという事の方が重要です。イエス様は主の祈りというとてもシンプルなお祈りの言葉を教えるとともに、誰に祈っているのか、その方はどのようなお方なのかということを教えておられます。

イエス様は魚を求める子に蛇を与えるような父親がいるだろうかと話します。それなら天におられる父なる神様は、なおさらあなた方の祈りを聞いて、良いものを与えて下さらないはずが無いということを暗に仰っています。父なる神様が与える事ができる最高のものは聖霊です。神様の霊が私たちに注がれる事です。それによって私たちは常に神様と共に過ごすことができるからです。イエス様はこの一連のやりとりによって、神様は良いお方であることを示しておられます。しかしこのとてもシンプルな事がなかなか私たちには納得できないのかもしれません。神様が良いお方で、イエス様は私たちを救いに来られたということが私たちにはなかなか受け入れられません。もし私たちが父なる神様が良いお方であると納得しているのであれば、祈ってお委ねするという事が素直にできるからです。小さい子どもは日々の生活の中から、自分の良心が信頼できるということを学びます。すると感情が爆発して制御できなくならない限りは素直に親の言う事を聞きます。親が良い人で信頼できると受け入れているからです。同じようにもし私たちが神様は良いお方で信頼できると受け入れているならば、神様に祈った言葉は必ず聞かれていると信頼することができます。どのような言葉で祈るかと言うことよりも、ちゃんと自分の言葉で祈り、祈りを聞いてくださる方を信頼しようと考えるようになると思います。ルカの福音書11章の後半にはイエス様が悪霊の親玉によって悪霊を追いだしているのではないかと疑う人の話が出てきます。イエス様が良いお方であると受け入れているのであれば、このような発想は出てこないでしょう。またパリサイ人や律法学者たちもイエス様が救い主であると信じていないので、イエス様の言動に不信感を持ってしまいます。私たちは天の父なる神様、イエス様についてどのようなお方であると考えているでしょうか。どのような言葉であれば聞かれるかということよりも、誰に祈っているのかを考えて祈りたいと思います。

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敵を愛しなさい

しかし、あなたがたは自分の敵を愛しなさい。彼らに良くしてやり、返してもらうことを考えずに貸しなさい。そうすれば、あなたがたの受ける報いは多く、あなたがたは、いと高き方の子どもになります。いと高き方は、恩知らずな者にも悪人にもあわれみ深いからです。
ルカ6:35

 

ルカの福音書6章は、マタイの福音書の山上の垂訓と似たイエス様の教えが書かれています。マタイでは山の上でイエス様が教えられた(マタイ5:1)ように見えますが、ルカでは山を下りてきた平らな所で教えられた(ルカ6:17)とあります。マタイの方がボリュームが多く、ルカの方がコンパクトです。私は読み比べて見て、マタイの方が慰め、励ますような口調に聞こえ、ルカの方がもう少し厳しく自分を吟味するように教えられているような印象を受けました。マタイでは八福と呼ばれる「~な者は幸いです」という教えも、今、辛い逆境にある人々に希望を与えるような内容になっています。しかし、ルカではそれが短くなっており、その後、「しかし、富んでいるあなたがたは哀れです(ルカ6:24)」というような逆の事が語られています。これを聞いた人々は、混乱を覚えたのではないでしょうか。自分は貧しい者なのか、富んでいる者なのかと考えたと思います。自分は神様から祝福を受ける者だろうかどうだろうかと、自分を見つめなおすことになります。

貧しい者は幸い、富んでいる者は哀れ、と語り少し混乱を覚えた人々に、イエス様は、そもそも神様は何を望んでおられるかという話をされます。「しかし、これを聞いているあなたがたに、わたしは言います。あなたがたの敵を愛しなさい。あなたがたを憎む者たちに善を行いなさい。(ルカ6:27)」こう言ってイエス様は、なかなか実行するのが難しいいくつかのことを述べます。呪う者を祝福し、欲しがる者には惜しまず与え、見返りを求めるなとイエス様は仰います。自分を愛してくれる人を愛したからと言って何になるのか、そんなことは罪人たちでも行っていると言います。プレイズジャムの時、マイケル・ジャクソンの歌を紹介しました。その歌詞にはSelfish loveという言葉が登場します。このSelfish loveという言葉は、日本語に訳すのが難しいという話をしました。Love愛にはいくつか種類があって、Selfish(自分勝手な)愛もあるということです。おそらく反対語はSelf-giving love(自分を捧げる愛)です。Selfishとは利己的とも訳されます。自分の利益をまず第一に求めることです。よく進化論の話の中では、自分を守るため、自分の利益を第一に求めたとしても、必ずしも他の者と敵対関係になるわけではないという事が言われます。出会う者すべてと争うのではなく、時には協力することも自分の利益につながるからです。そのような時には愛しているかのようなふるまいを見せるのです。つまりSelfish(自分勝手)でも、他者を愛せるのです。イエス様はこのSelfish loveを指摘しています。愛だ。愛だ。と言っても、結局は自分に見返りを与えてくれるものだけを愛しているのではないか?ということです。それは神様の前に罪人と同じです。

神様はSelf-giving love(自分を捧げる愛)をお持ちの方です。いと高き方は見返りを求めず、恩知らずな者にも悪人にもあわれみ深いお方です。その子どもとなりたいのであれば、あなたがたも敵を愛しなさい。とイエス様は教えられます。返してもらおうとは思わずに与えなさいと仰います。そうすれば、だれもがあなたを神様の子どもと認めるようになります。神様も心からあなたを歓迎してくれます。問題はSelf-giving loveを私たちは持ち合わせていないということです。それは十字架の神様しか持っていない愛です。その事にまず気づきを与え、神様から愛を頂かなければなりません。「弟子は師以上の者ではありません。しかし、だれでも十分に訓練を受ければ、自分の師のようにはなります。(ルカ6:40)」とイエス様は仰います。イエス様に入門し、そしてイエス様から十分に訓練を受けて、イエス様の愛で満たされ、実行して行く者となりましょう。

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梅の花

 

梅の花が咲いて、賑やかになってきました。
今年はまだまだたくさんつぼみがあるので、しばらく楽しめそうです。
最近は日中、暖かい日も増えてきましたね。
梅の木の下では、チューリップも芽を出し始めています。

赦しを求める姿勢

主よ あなたが御民を受け入れてくださるときに私を心に留め あなたの御救いのときに私を顧みてください。
詩篇106:4

聖書通読は詩篇に戻りました。詩篇106篇はI歴代16:34-36や、ネヘミヤ9章や、ダニエル9章などにも同じような表現が見られ、ダビデの時代の作とも、捕囚期以降の作とも考えられます。ダビデが作り、それ以降たくさんの時代に好まれて用いられたとも考えられます。この詩篇はイスラエルの歴史を振り返り、神様の前に数々の罪をおかしてきたことを告白しています。そして神様の前に悔い改めをしています。神様はそのような民に対し、深いあわれみを持って接して下さっている事が分かります。詩篇106篇には出エジプトから士師記くらいまでの歴史が記されているように思います。一つ前の詩篇105篇には創世記のアブラハムと神様との契約の事が書かれていますので、詩篇105篇、106篇と合わせて読むと、ダビデがそれまでのイスラエルの歴史を振り返っているような構造になります。

出エジプト記から士師記までのイスラエルの民の歴史は、聖書に赤裸々に綴られています。イスラエルの民は何度も神様に逆らいました。しかしその度に何度も神様はイスラエルの民を救われました。この詩篇で注目されるのは、イスラエルの民が神様に逆らい、神様がイスラエルの民を滅ぼそうと仰った時に、とりなし手が現れた事です。106:23にはモーセが破れてしまった神様とイスラエルの民の関係の間に立っている様子が描かれています。また106:30にはピネハスが仲立ちをしたと書かれています。もしモーセやピネハスのような、自分たちの罪を認め、神様に悔い改めて、民全体のためにとりなすような人物が現れなかったら、大変な事になっていたであろうと詩篇の記者は考えます。そう考えて106:4-6を読みますと、この詩篇の記者も自分たちの罪を認め、悔い改めて、民全体のためにとりなしているように見えるのです。

詩篇106:4を読んだ時、イエス様と共に十字架に架けられた強盗の言葉を思い出しました。ルカ23:42でイエス様と一緒に十字架刑に処せられている強盗は「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」と言いました。数日前にディボーションでデニス・キンロー師の本を読んでいたからかもしれません。キンロー師はシャン・カルヴァンの言葉を引用しながら、この強盗セリフは普通でてこない言葉であると語っています。イエス様も強盗も罪人として磔にされています。数人いた弟子たち以外の全員がそう思ってこの光景を眺めています。しかしこの強盗は、周りの全員が見ていなかったものを見ていました。イエス様の栄光を見ていたのです。弟子たちも悲しみのあまり、イエス様の栄光を見ていませんでした。強盗はイエス様の栄光を見て、自分の罪を顧みた時に、あまりにも罪深く、小さな自分を自覚しました。御怒りを受けても仕方のない者だと自覚しました。しかし同時にイエス様のあわれみも見たのです。強盗は自分はイエス様のあわれみにすがる資格もない者だと思いましたが、その片隅にでも覚えて頂けるならとこの言葉を言ったのです。強盗はイエス様を信じる民全体が救われて喜ぶさまを、その片隅で見る事さえできれば十分であると考えました。強盗の姿勢は、本当に自分の罪深さを自覚した時に生まれるものだと思います。そしてイスラエルの歴史を振り返った時に、本当に自分たちは罪深い存在だと自覚したこの詩篇の作者の思いともつながると思います。そのような者をもあわれみ、救いを与えて下さる神様を見る時、詩篇106:48に心から賛同して「アーメン」と言えるのではないでしょうか。

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全き心を求める

私は全き道に心を留めます。いつあなたは私のところに来てくださいますか。私は家の中を全き心で行き来します。
詩篇101:2

 

聖書通読は詩篇に戻りました。詩篇101篇は表題に「ダビデによる」と書かれています。ダビデが王となった時、自分の信仰を堅く保ち、正義を行い、自分の家、つまり国の中枢となる王宮も信仰と正義を保つっていくと覚悟をしているような歌です。この詩篇の前にある詩篇95~100篇は、それよりもずっと後の時代の者と考えられており、バビロン捕囚が終わって、エルサレムに再び神殿が築き上げられた時、歌われたものと言われています。そう考えますと、詩篇101篇はバビロン捕囚の後、新しい神殿で神様に仕えていく祭司たちが、ダビデの歌を歌って同じように信仰と正義を守り抜くことを誓い合っているように思えます。

詩篇101篇の前半は自分の生活を清く保つことについて語り、後半は自分とかかわりを持っている人について語っています。前半部分を読んだ時の私の正直な感想は「私はこんな生活とはほど遠いな」というものです。「私は家の中を全き心で行き来します」「私は曲がったわざを憎みそれが私にまといつくことはありません」と告白していますが、ダビデはよくこんな事が言えるなと思います。私は自分の生活を振り返る時、これとは真逆なのではなかろうかと思います。そしてイエス様の十字架による赦しを乞います。聖書は確かにイエス様は私たちを罪から救い、きよめて下さると語っています。「たとえ、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる(イザヤ1:18)」と神様は仰って下さいます。しかしだからと言って、私たちは正義を追い求めなくてよいのではありません。信仰を保つ努力をしなくてよいのではありません。自分の力では、自分の生活を清く保てるか自信がないかもしれません。しかし、神様は私たちに自由に選択するように委ねていますので、私たちは清くありたいのであれば、清くありたいとと決心する必要があります。時にはこの詩篇のように一大決心をして神様の前に自分の決意を表明する必要があります。そのように決心する私たちの信仰を神様はご覧になって、神様が私たちのところに来てくださり、生活を清く保つ力を与えて下さいます。私たちは自分の力ではなく、神様の力と御言葉によって、自分の生活をきよく保つ事ができます。しかしそのような生活を望むかどうか、神様は強制されません。私たちが自分で決める必要があります。

この詩篇のなかで、ダビデは自分の生活だけでなく、自分の家に出入りする者もきよく保つことを告白しています。ダビデは自分が神様と共にある生活をしているかどうかだけをチェックしているのではなく、他の人が神様と共に過ごせているかどうかも気にかけています。神様はどんな人でも愛してくださって、救いを与えて下さいます。ですから私も救われました。神様はまた私の周りにいる方々にも、救いを与えて下さっています。私は私の信仰生活だけを気にするのではなく、他の方々が信仰生活を守れるように気にしているでしょうか。他の方々が自ら神様とのきよい生活を選ぶことができるように、励まし、慰め、時にいさめることも必要かもしれません。愛をもって互いに接し、助け合い、祈りあう事が必要です。今日も、教会の兄弟姉妹のために、またご家族のために、そして今日は海外の先生方、兄弟姉妹のために心を砕いて祈りあいましょう。

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万物の源なるキリスト

こういうわけで、あなたがたはキリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。
コロサイ3:1

 

今日は順番にいくと通読箇所は詩篇になるのですが、コロサイを開く機会がなかったので、コロサイを開きます。コロサイ人への手紙は手紙の中でも何度か、パウロが語っていますが、パウロがローマで軟禁状態であった時に書かれた手紙です。1:7-8によるとエパフラスという人がコロサイの教会の様子をパウロに知らせました。この時、何らかの贈り物を持って行ったのかもしれません。パウロはそれに感謝しつつ、返信する形でこの手紙を書きました。コロサイ教会の様子を知らせてくれたのはエパフラスでしたが、この手紙をコロサイに持って行ったのは4:8-9によるとティキコとオネシモのようです。余談ですが、オネシモはピレモンの手紙にも登場し、そちらでは渦中の人物です。おそらく、ピレモンの手紙と同時期に書かれ、オネシモはコロサイ教会を訪ねた後、ピレモンのもとへ帰る予定だったのかもしれません。

コロサイ人への手紙はキリストが万物の支配者であるという宣言から始まるスケールの大きな内容の手紙です。コリント人への手紙などを見ますと、当時からキリストの教えと、世の中一般の哲学との間で揺れ動く人々がたくさんいたようです。パウロが哲学の全てがキリストの教えに反しているとは言いません。実際、パウロの手紙の多くは、修辞学という当時の弁論学的な記述の仕方で書かれているようです。当時用いられていた哲学の一つ、より良く自分の意見を人に伝えるための技術をパウロは用いていました。パウロは、私たちが何を基盤として生きるのかをこの手紙の中で教えています。学問は、人間の知恵を集めたものです。学問は世界の仕組みを解明し、生活をしていく上で、より良い方法を提示してくれます。しかし世界は学問によって支えられているのではありません。世界の仕組みはすでに出来上がっていて、学問はあくまでその完成されている仕組みを理解しようとする試みでしかないのです。そしてパウロは、世界(万物)の仕組みを完成させ、今も成り立たせているのはキリストであると断言します。ですから私たちは学問とキリストを比べるようなことはしません。本来、比べられるものではないからです。キリストを全ての土台として据え、その上に私たちは自分の生活と、学問を置きます。キリストと学問は別次元の物なのです。

私たちを救って下さったのは学問ではなく、キリストであるとパウロは言います。ですから私たちはキリストを求めます。キリストの内に全てがあるからです。生活をしているとこういう時はどうすればいいだろうと悩むこともよくあります。学問や知恵に頼ろうと思うと、アドバイスがありすぎて混乱することもあります。また全くアドバイスが無い時もあります。最終的な判断を学問に頼ろうとすると、とても難しいです。しかし私たちはキリストにあって生かされているのですから、最終的な判断はキリストにあって判断したいと思います。「イエス様ならこんな時、どうするであろうか。」ということをいつも求めながら、一つひとつのことにあたっていきたいと思います。

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赦しを請う

主よ、あなたのみもとに帰らせてください。そうすれば、私たちは帰ります。昔のように、私たちの日々を新しくしてください。あなたが本当に、私たちを退け、極みまで私たちを怒っておられるのでなければ。
哀歌5:21-22

 

哀歌に入りました。哀歌は「エレミヤ哀歌」とも呼ばれます。70人訳聖書には、バビロニアによってエルサレムが陥落し、バビロン捕囚が始まった時に、エレミヤがこの哀歌を歌ったというような説明が書かれているからです。旧約聖書でもエレミヤ書の次に哀歌が並んでいますが、歴史の順番から言っても、この順番が良い位置なのかもしれません。エレミヤは南ユダ王国で活動した預言者です。神様がバビロン捕囚を計画されている事を人々に告げ知らせました。ユダヤ人たちは真の神様に仕えることを止め、他の神々や、諸外国の力を頼るようになりました。その結果、神様はバビロン捕囚を決めたのです。しかし人々は、エレミヤの言うことを信じず、他の預言者たちはエレミヤと逆のことを語りました。最終的にはエレミヤの言葉の方が正しく、エルサレムの町は攻め落とされ、徹底的に破壊されました。崩れ行く町を見て、苦しみ殺されていく人々を見て、エレミヤは嘆いています。自分の方が正しかったからと言って勝ち誇ることは出来ません。苦悩の言葉を語り、迫害を受け、自身の言葉の通りになって、また苦悩しているエレミヤの様子が伝わってきます。

エレミヤはこのような悲惨な結果になったのは、自分たちの罪のゆえであると、ユダヤの人々を代表して嘆きます。1:18にあるように「主は正しい方である。しかし、私は主の命令に逆らった」のです。神様はユダヤの人々との契約を守り、祝福を与えていました。しかしユダヤの人々は契約を破り、神様を捨てて罪をおかしたのです。そして今、エレミヤは神様に伺いを立てています。神様の前に自分たちの罪を悔い、赦しを求めています。そして可能であれば、もう一度神様の民として、神様と共に歩む事が出来ませんでしょうかと伺っています。「主よ、あなたのみもとに帰らせてください。そうすれば、私たちは帰ります。昔のように、私たちの日々を新しくしてください。あなたが本当に、私たちを退け、極みまで私たちを怒っておられるのでなければ(哀歌5:21-22)」ここには、人の罪と神様の赦しの本質が描かれているように思います。罪をおかしたのは人間です。ですから赦す、赦さないは、人間の自由にはできません。赦されなかったとしても、文句は言えないのです。キリスト教会では、「罪を告白すれば赦されます」と教えますが、それは自動販売機にお金を入れればジュースが買えるというようなものではないのです。赦す、赦さないは、人が罪を告白したかどうかにかかっているのではなく、神様の判断なのです。ですからエレミヤは「あなたが本当に、私たちを退け、極みまで私たちを怒っておられるのでなければ」お赦し下さいと語ります。

ユダヤの人々は何十年にも渡って神様を拒み続けました。私たちも自分の罪を振り返ると、決して赦して頂けないのではないかと思います。しかし「主は あわれみ深く 情け深い。怒るのに遅く 恵み豊かである。主は いつまでも争ってはおられない。とこしえに 怒ってはおられない(詩篇103:8-9)」お方ですから、感謝します。神様の恵みのゆえに、赦されて、新しい日々を歩めていることを感謝します。

お祈りの課題

  • 昭島教会に集う方々、ご家族のために
  • 最近、初めて来られた方々、久しぶりに来られた方々のために
  • 伝道礼拝、映画会、交換講壇礼拝のために
  • クリスチャンのしゃべり場のために
  • 小金井教会のために