神様の御言葉の飢饉

見よ、その時代が来る。──神である主のことば──そのとき、わたしはこの地に飢饉を送る。パンに飢えるのではない。水に渇くのでもない。実に、主のことばを聞くことの飢饉である。
アモス8:11

アモス書を開きました。アモス書は預言者アモスが神様から語られたことを記した書物です。アモスはエルサレムの南にあるテコアという町の出身で、もともとは預言者ではなく牧者でした(7:14)。ユダの王がウジヤの時代、イスラエルの王がヤロブアム2世の時代に神様からの召命を受け、預言者としての活動を始めました(1:1)。神様からの言葉は主にイスラエルに対するものでしたが、いくつかの周辺諸国にも向けられています。ヤロブアム2世の時代、北イスラエルと南ユダは領土を回復しました(II列王14:25)。イスラエルの民の罪によって領土を失い、苦しみの中にありましたが、神様が回復させて下さったのです。しかしアモス書を見ると、イスラエルの民の目は完全には神様に向き直っていなかったようです。

II列王記14:27には、神様がイスラエルを滅ぼしつくすことを願っておられない事が書かれていますが、アモス7:1-6においても、神様がイスラエルを滅ぼしつくしてしまう事を願っておられない事が分かります。神様はイスラエルに向けての災いの幻をアモスに見せました。1-2節では青草を食いつくすいなご、4節では焼き尽くす火をアモスに見せています。それを見たアモスはその災いが下されるとイスラエルは生き残る事ができないので、どうかお赦しくださいと神様に懇願します。神様はアモスの言葉を聞き、災いを思い直されました。しかし7-8節で、下げ振りによる幻をアモスに見せることで、イスラエルの民の罪が見過ごせない程であることを示しています。下げ振りは建物を建てる時に、測量で使うための道具です。神様が下げ振りをイスラエルに下げ、イスラエルの罪を測った結果、到底見過ごすことができないところまで来ているという事です。イスラエルの罪はそれほどまでにひどいものでした。イスラエルの民は「弱い者の頭を地のちりに踏みつけ、貧しい者の道を曲げている。子とその父が同じ女のもとに通って、わたしの聖なる名を汚して(2:7)」いました。神様はイスラエルに対して終わりの日が来ると宣言します(8:2)。

8:11で神様はイスラエルの罪のゆえに、飢饉を送ると言います。それは食べ物が無くなるという飢饉ではなく、神様の御言葉が無くなるという飢饉でした。創世記には神様がその言葉によって世界を形作られたことが記されています。世界は神様の御言葉によって建てられています。ですから神様の御言葉を求めることが私たちが生きるために必要不可欠なことです(5:6-8参照)。しかし神様は神様の御言葉の飢饉を送ると言われました。それは私たちのいのちの危機です。たくましい人も、若い人も、神様の御言葉を見つける事ができなければ、倒れて起き上がる事ができません。神様の御言葉はあっても無くても良い物ではなく、必要不可欠なものです。イスラエルの他の預言者たちは、アモスに対して預言するなと言いました(7:12-13)。それはアモスがイスラエルにとって都合の良い事を言わず、悪い事を預言したからです。しかしアモスだけが真の神様の御言葉を語っていました。アモスが黙れば、神様の御言葉を聞くことはできなくなります。私たちは神様の言葉を求めているでしょうか。それが例え自分にとって都合の悪い事あっても、私たちには神様の御言葉が必要です。神様は私たちを滅ぼしつくすために言葉を投げかけるのではなく、悔い改めに導き、神様に立ち返る事ができるように御言葉をかけて下さいます。神様の言葉に素直に聞き従い、神様の御言葉によっていのちを頂きながら歩みましょう。

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敵を愛する

私たちの間でキリストのためになされている良い行いを、すべて知ることによって、あなたの信仰の交わりが生き生きとしたものとなりますように。
ピレモン6

ピレモンへの手紙を開きました。ピレモンへの手紙はパウロからピレモンへ宛てた個人的なお願いの短い手紙です。ピレモンは手紙の内容からすると、パウロと出会い、キリストの救いを受け入れ(19節)、その後、自分の家を開放して教会を建てあげるようになりました(2節)。キリストを述べ伝える者として、パウロから同労者(1節)と呼ばれるほどにまで熱心に働いていたと思われます。ピレモンにはオネシモという奴隷がいました。しかし何らかのトラブルがあり、オネシモは主人であるピレモンに損害を与えた上で、逃亡したのです(18節)。その後オネシモはローマにいたパウロの所にたどり着き、そこで悔い改めてパウロのお世話をするようになりました。当時、主人から逃亡した奴隷は、発見され次第、死刑となることが決められていたようです。パウロはオネシモをピレモンの許に返すべきかどうか迷いましたが、オネシモの主人はピレモンですので、送り返すことに決めたようです。そして主人であるピレモンに、奴隷オネシモに対して寛大な処置をするようにお願いの手紙を書いたのです。コロサイ人への手紙を見ますと、オネシモはティキコと一緒にコロサイを訪れたことが記されています(コロサイ4:8-9)。おそらくオネシモはローマを出発し、コロサイを経由して、ピレモンの所へ帰ったのでしょう。

クリスチャンの愛の行いは、嫌いな人と向き合った時、最大限に試されるのではないかと思います。自分の好きな人、気に入っている人に対して、愛の行いを示すことは比較的容易かもしれません。よく知らない人、初めて会う人に対して愛の行いを示すことは大変なことです。宣教や伝道が大変なのは、相手を良く知らないので、ゼロから信頼関係を築かなければならないからです。しかし最も大変なことは、良く知っていて、それゆえに苦手と思っている人、嫌いだと感じる人に対して、愛の行いを示すことではないでしょうか。ゼロから関係を築くのではなく、マイナスになってしまっている関係をプラスにしていくことは本当に大変であると言えます。しかしイエス様は、「あなたがたの敵を愛しなさい。あなたがたを憎む者たちに善を行いなさい(ルカ6:27)」と仰います。そしてイエス様ご自身がイエス様の敵であった私たちのために十字架に架かって救いを与え、愛を示して下さいました。クリスチャンはイエス様の愛を受け取って、同じように敵を愛する者となるように招かれています。

ピレモンとオネシモの関係はどうだったでしょうか。間違いなく破綻していたと思われます。しかしパウロは全てを承知の上で、この手紙を書きました。パウロはよく手紙の冒頭で、4節のような相手のことを感謝している事、いつも祈っている事、また5節のような相手の信仰や愛の行いをほめる言葉などを書きます。私たちも手紙の冒頭では、相手への感謝や褒める言葉を書くかもしれません。しかしそれが単なる定型句では終わらないでほしいことを神様は私たちに願っておられるのではないでしょうか。「キリストのためになされている良い行い(6節)」には数多くありますが、そのすべてを私たちは知っているでしょうか。比較的容易な部分だけではなく、最も大変な部分も知ることで、私たちの信仰は初めて生き生きとしたものとなるのかもしれません。この手紙を受け取ってピレモンはオネシモに対してどう接したのか、それは分かりません。しかし私たちもこの手紙を自分に宛てられた手紙として受け取りたいと思います。自分の敵をどう愛していく事ができるのか、神様を仰ぎながら考えたいと思います。

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最も偉大な大祭司

したがってイエスは、いつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるので、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。このような方、敬虔で、悪も汚れもなく、罪人から離され、また天よりも高く上げられた大祭司こそ、私たちにとってまさに必要な方です。
ヘブル7:25-26

ヘブル人への手紙を開きました。ヘブル人への手紙は、伝統的にはパウロが書いたのではないかと言われていましたが、手紙の中には誰が書いたという説明がありません。他にもいろいろな著者候補が挙げられていますが、決定的なものはなく著者不明というのが一般的なようです。宛先は「ヘブル人へ」となっていて、手紙の内容からもイスラエルの律法、祭儀に関する言及が多く、旧約聖書の知識をある程度持っている方を前提としています。もしかしたらイスラエルの文化に疎い日本人からはよく分からない文章と映るかもしれません。適宜、出エジプト記、レビ記などを参照しながら読むことが必要となります。

ヘブル5-7章では、イエス・キリストが「メルキゼデクの例に倣い」最も優れた大祭司であることが論証されています。メルキゼデクとは誰なのか、大祭司とは何をしているのか、イスラエルの文化を知っていなければ難しい文章です。まず祭司とは、神様と人間を結ぶ橋渡しの役を担っている人々です。彼らは毎日、幕屋という礼拝所で、民のために神様にとりなしの捧げ物と祈りをしていました。彼らの祈りを神様が聞かれ、民の罪を赦し、和解をして下さるのです。その祭司たちの長が大祭司です。大祭司は年に一度、幕屋の一番奥にある至聖所と呼ばれる部屋に入り、イスラエルの民全体のために宥めの捧げ物をしました。祭司たちは毎日、祈りと捧げ物の仕事をしているので、他の仕事ができません。そのため、イスラエルの民が神様に捧げた物の一部を祭司たちが食べて良い事になっています。

メルキゼデクとは創世記に突然登場する神の祭司です。まだイスラエルという国が無く、当然、律法や祭司の職業という規定もなかった時代です。メルキゼデクはレビ人だからとか、イスラエル人だからということとは関係なく、神様から特別に祭司に選ばれた人です。7:3で示されるように始まりと終わりの無い神秘的で、偉大な祭司と理解されています。すべてのイスラエル人の祖先であるアブラハムもメルキゼデクに捧げ物をもっていき、メルキゼデクから祝福を受けました(創世記14:18-20)。

ヘブル人への手紙でたびたび詩篇110:4が引用されていますが、イエス・キリストは「メルキゼデクの例に倣い、とこしえに祭司である」お方です。ヘブル人への手紙の著者は、イスラエルで祭司職を担っていた者たちは、神様に選ばれた尊い存在でしたが、イエス・キリストはさらに尊い、優れた、完全な存在であると言いたいのです。イエス様は生涯で罪をおかしたことが無く、常に神様に従順でした。そしてメルキゼデクのように祭司の規定によって選ばれた祭司ではなく、突然、神様から選ばれた大祭司です。祭司たちは動物を捧げ物として捧げましたが、イエス様は十字架でご自分の体を差し出されました。そして3日目に神様の力で復活し、天に上げられ、今でも生きておられます。イエス様は、そのような最も偉大で、完全な大祭司ですから、私たちを完全に救うことがおできになります。私たちの罪を赦し、新しいいのちを与え、神様との完全な和解を与えて下さいます。そのような最も優れた大祭司イエス様に感謝したいと思います。

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聖霊による再生と刷新の洗い

神は、私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分のあわれみによって、聖霊による再生と刷新の洗いをもって、私たちを救ってくださいました。
テトス3:5

 

テトスへの手紙を開きました。この手紙はパウロからテトスに宛てて書かれた手紙です。テモテと同じく、テトスもパウロの忠実な弟子でした。1章の内容からパウロはクレテ島で伝道し、教会が形造られましたが、何らかの事情で最後まで働きを続けることができませんでした。そこでテトスをクレテの教会に残し、パウロの奉仕の続きを担ってもらいました。パウロはクレテに残ったテトスに手紙を送り、パウロのやり残した奉仕、教会のリーダーとなる長老、監督を選ぶことと共に、教会の兄姉を立派なクリスチャンとして育てていく事について書いています。

クレテの教会の人々がどのような人々であったのか、この手紙から推測しますが、あまりよく書かれていません。1:12には「クレテ人はいつも嘘つき、悪い獣、怠け者の大食漢。」と書かれています。どの程度のことを言っているのか分かりませんが、良い評価ではありません。パウロはクレテの教会の人々が、イエス・キリストを信じて救いを受けた後もなお、この評価のままであると見ていたようです。しかし2:14にあるように「キリストは、私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心な選びの民をご自分のものとしてきよめるため、私たちのためにご自分を献げられたのです。」私たちは悪い者でしたが、神様は私たちを良い者とするために、私たちを救って下さいました。イエス様を信じて救いを受け入れるという事は、神様が私たちを良い者へと変えて下さるそのプロセスを受け入れるという事です。

テトスへの手紙に置いて、パウロは特に長老や監督といった教会のリーダーたちのことを書いています。良い者に変えられる恵みは、長老や監督たちだけに与えられる恵みではありません。すべてのクリスチャンに与えられています。また、クレテの教会の人々だけではなく、私たちにも与えられる恵みです。考えてみれば今の日本も、この手紙に書かれているような状況かもしれません。3:3には「私たちも以前は、愚かで、不従順で、迷っていた者であり、いろいろな欲望と快楽の奴隷になり、悪意とねたみのうちに生活し、人から憎まれ、互いに憎み合う者でした。」と書かれています。最近の日本はとても個人主義的で、言論の自由を盾に言いたいことは何でも自由に言ってもいいかのような風潮があります。ヘイトスピーチと呼ばれる物が多く存在し、お互いがお互いを嫌いと言い合い、憎しみの連鎖が途切れることがありません。しかしイエス様は「ののしられても、ののしり返さず…十字架の上で、私たちの罪をその身に負われ(Iペテロ2:23)」ました。嫌われても、その方のために救いを与えて下さるお方です。私たちはその方の救いを受けました。キリストの血は私たちの罪を赦し、心をきよめ、憎しみの連鎖から救う事ができます。ですからパウロがクレテの教会の人々に勧めているように、私たちも「聖霊による再生と刷新の洗い(テトス3:5)」を求めたいと思います。神様にこの心を赦し、きよめて頂き、憎しみあうのではなく、「慎み深く、正しく、敬虔に生活し、祝福に満ちた望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるイエス・キリストの、栄光ある現れを待ち望む(テトス2:12-13)」者とならせて頂きましょう。

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あわれまれない者をあわれむ

 あなたがたは正義の種を蒔き、誠実の実を刈り入れ、耕地を開拓せよ。今が主を求める時だ。ついに主は来て、正義の雨をあなたがたの上に降らせる。
ホセア10:12

ホセア書に入りました。ホセアは北イスラエル王国で活動した預言者です。当時の北イスラエル王国の王様の名前はヤロブアムと記されていますが(1:1)、これはヤロブアム2世のことであると考えられます。北イスラエルの王はヤロブアム2世のみ記されていますが、ヤロブアム2世よりも後の時代に南ユダの王となったヒゼキヤ王の治世にも活動したことが記されています。ヒゼキヤの治世(722BC)に北イスラエル王国はアッシリヤに滅ぼされているので、ホセアは北イスラエル王国の最後の時まで活動していたかもしれません。

ホセア書は神様の確かなさばきと、それ以上に深い愛情が示された書物です。ホセアは神様からの指示を受け、ゴメルという女性と結婚します。ゴメルはホセアとの結婚生活の間に3人の子どもを産みます。ホセア書は長男のイズレエルが生まれた時には、「彼に男の子を産んだ(1:3)」と記しますが、その後、長女と次男の誕生の時には、ただ単調に「女の子を産んだ」、「男の子を産んだ」と記し、どこかよそよそしさが感じられます。子どもの名前も「ロ・ルハマ(あわれまれない者)」、「ロ・アンミ(私の民ではない)」など、まるでホセアの子どもではないかのように語られます。ゴメルは3人の子どもを産んだ後、ホセアの許を去ります。そして他の男性を求めて、文字通り「姦淫の女(1:2)」となってしまいます。しかし神様はホセアに「再び行って、夫に愛されていながら姦通している女を愛しなさい(3:1)」と言われます。ホセアは自分の許を去った妻ゴメルを探しだして、もう一度夫婦としての生活を始めます。神様はホセアの結婚生活を通して、神様に愛されながらも、神様から離れ他のものを愛しているイスラエルに対するメッセージを送っています。イスラエルの罪は夫を裏切ったホセアの妻のようにひどいものですが、神様はイスラエルを再び愛そうと招いておられるのです。2:23にはこう書かれています。『わたしは、わたしのために地に彼女を蒔き、あわれまれない者(ロ・ルハマ)をあわれむ。わたしは、わたしの民ではない者(ロ・アンミ)に「あなたはわたしの民」と言い、彼は「あなたは私の神」と応える。』神様はご自分を裏切った者の罪を裁きますが、さらに深い愛情をもって愛そうとなさる神様なのです。

イスラエルは真の神様に仕える民となると契約をしましたが、神様を裏切り、他の神々に仕え、諸外国に仕え、自分たちの力と知恵だけに頼ってきました。北イスラエル王国は最終的にアッシリヤによって滅ぼされてしまいます。しかし神様はイスラエルの人々が完全に滅ぼされてしまう事を望んでいない事がホセア書を読むとよく分かります。「イスラエルよ。どうしてあなたを見捨てることができるだろうか(11:8)」と神様は仰り、ホセアが生涯悩み苦しむことをご存知の上で、ゴメルとの結婚生活をさせます。それほどまでに神様は一人ひとりを大事に思っておられ、一人ひとりの罪の深さに悩み、嘆いています。イエス様の十字架は罪の悩みの深さと、神様の大きな愛を表していますが、ホセア書もその両方を表しています。10:12は、このような神様の愛を知った今こそ、イスラエルは神様に立ち返り、神様を求める時だと語ります。再びホセアの許に帰ったゴメルがずっとホセアの許に留まるように、イエス様の十字架によって神様の許に連れ戻された私たちも、神様の許に留まり続けたいと思います。

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