イエス様の与えるいのちの水

しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。
ヨハネ4:14

ヨハネの福音書に入りました。ヨハネの福音書は、他の福音書と比べてあまり重なる部分がありません。ヨハネの福音書が執筆された時には、他の福音書がすでに出来上がっていたので、ヨハネは他の福音書を補完する形で、ヨハネの福音書を執筆したのではないかと考えられています。そういうこともあってか、ヨハネの福音書は序盤から、イエス・キリストの救いの核心とも言える部分を存分に書き記しています。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである(ヨハネ3:16)」は、聖書の中の聖書とも呼ばれる節で、キリストの福音の本質を端的に記しています。

ヨハネ3~4章には、ニコデモという律法学者と、サマリヤの女性が出てきます。彼らは境遇は全く異なっていましたが、人目をはばかっているという興味深い共通点があります。ニコデモは律法については人に教えられるほどの権威のある人でした。しかしその権威が仇となって、人前でイエス様に教えを乞うのをはばかり、夜中にイエス様を訪問します。またサマリヤの女性は、男性と5回も結婚しては分かれるという経緯があり、そのゆえに人前に出ることが難しく、日中一番日が高く上り、暑くて誰も泉に来ないような昼間に泉にやってきました。そこでイエス様に声をかけられたのです。彼らは共に人には言えないような心の渇きがあり、イエス様の救いを必要としていました。

人はだれでも、心に飢え渇きがあります。心の中のその部分は本来、神様との活けるコミュニケーションの中で満たされていくべき部分です。他の何物をもってしても埋めることはできません。しかし私たちは罪のゆえに神様に求めることを拒み、他のものでその隙間を埋めようとします。サマリヤの女性は男性との関係の中に、その隙間を埋める何かを求めました。しかし何度も裏切られ、傷ついていたのです。ニコデモは善行であったり、律法を学び、人に教える権威によってそれを埋めようとしました。しかし神様を離れた善行や律法の教えは空虚なものとなりました。イエス様は言います。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます(ヨハネ4:14)」その隙間は神様の与えるいのちの水以外で埋めることはできません。イエス様は神様なので、その水を与えることができます。イエス様はニコデモとサマリヤの女性にこのいのちの水を与えました。

サマリヤの女性の変化はすぐに訪れています。サマリヤの女性はイエス様に出会い、自分のすべてを理解し、満たしてくださる方に出会ったことによって、喜びを抑えられなくなりました。彼女はそれまで町中の人の目をはばかっていましたが、今は町中の人に声をかけ、イエス様の事を話しました。それは自分のしてきた悪い行いを公表することになりましたが、彼女にとってはイエス様に理解してもらえたことで、他の人の目が気にならなくなったのです。それよりもイエス様に理解してもらえた喜びの方が大きくなりました。イエス様の仰った通り、いのちの水があふれるほどに湧き出たのです。誰でも心に渇きを覚えている人はイエス様からいのちの水を頂くことができます。その人その人にふさわしい水が与えられ、心に喜びがあふれるようになります。イエス様を求めていきましょう。

お祈りの課題

  • 昭島教会に集う方々、ご家族のために
  • 10-11月に新しく来られた方々、久しぶりに来られた方々のために
  • 12/23キャンドルサービス、12/24クリスマス礼拝・祝会のために
  • 宣教師の先生方、宣教地のために
  • 南平教会のために