見えること、見えないこと

そこで、イエスは言われた。「わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」
ヨハネ9:39

ヨハネの福音書は、イエス様が神様であることを伝えるために、興味深い描き方をしています。イエス様の行ったことと並べて、その奇跡に関連するパリサイ人たちとの論争を描いているのです。7章ではイエス様は仮庵の祭りに行きました。仮庵の祭りは水が使われる祭りですが、それと関連してイエス様はご自身が「生ける水」の与え主であることを証ししています。8章では姦淫の現場で捕らえられた女性を赦すという事をしていますが、それと関連してイエス様が罪の赦しを行う権威を持っておられる神であることの論争が描かれています。今日開いた9章では生まれつき目の見えない人の癒しを行い、霊的に目が開かれることについての論争を行っています。

イエス様は唾で泥を作り、それを生まれつき盲目だった人の目に塗りました。イエス様がその人にシロアムの池に行って目を洗うように告げます。ここでその人とイエス様は一旦別れたと思われます。その人が池に行って目を洗うと、目が見えるようになっていました。周りの人々は、その人がずっと目が見えなかったのを知っていたので驚いて質問をします。すると、その人はイエスと言う人が神様の奇跡の業を行って下さったと告げます。9:25の「私は盲目であったのに、今は見える」という彼の言葉は、Amazing Graceの歌詞の一部になっています。日本語の驚くばかりのの歌詞には訳しだされていませんが、英語では(I) was blind but now I see…という歌詞が入っています。彼は生まれつき目が見えなかったのに、目が開かれて見えるようになるという奇跡を体験しました。これは神様の奇跡だと素直に信じました。そして再びイエス様に出会ったときに、イエス様が救い主であると信じていることを告白しています。

しかしパリサイ人たちは彼のいう事を信じることができませんでした。普通に考えれば奇跡以外の何物でもないできごとなのですが、パリサイ人たちは「イエスを認めない」という前提を頑なに持っていたため、この出来事を正しく理解できませんでした。パリサイ人たちは今や目が見えるようになっているこの人が、かつて盲目であったということが嘘なのだと言い張るようになりました。ヨハネの福音書9章はパリサイ人たちの滑稽さを見事に描いています。

ヨハネの福音書9章の論争は、霊的に盲目であるとはどういうことかを教えています。パリサイ人たちは、目はハッキリと見えているのですが、「イエスは救い主ではない」という固定観念に縛られているため、見えていることを正しく認識できていません。見えているのに見えていないのです。パリサイ人たちは自分たちはハッキリ見えていると自負しているので、自分たちの中に間違いがあると認めることができません。イエス様が神様であるという事を認めるには、自分たちには見えていない世界があることを認めなければなりません。イエス様の業、神様の業は私たちの知っている常識を超えているからです。むしろ自分は目が見えないと自覚している人の方が、イエス様の真理がよく見えるかもしれません。私たちは自分の目に見えていること、常識だと思っていることに囚われず、神様に霊的な目を開いて頂く必要があります。すると思いがけないところに神様の導きと恵みがあふれていることに気づくかもしれません。

お祈りの課題

  • 昭島教会に集っている方々、ご家族のために
  • 10-11月に初めて来られた方々、久しぶりに来られた方々のために
  • 23日キャンドルサービス、24日クリスマス礼拝・祝会のために
  • 新年の導きのために
  • 川越教会のために