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祈祷会メッセージとお祈りの課題

労苦を神と共に

結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。
神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。
神は、善であれ悪であれ、あらゆる隠れたことについて、
すべてのわざをさばかれるからである。伝道者の書12:13-14

 

祈祷会がお休みの間に伝道者の書の通読が終わってしまいましたので、今日は特別に伝道者の書を開きました。1:1に「エルサレムの王、ダビデの子、伝道者のことば。」と書かれているので、伝道者の書はソロモンが書いたとされています。ソロモンがイスラエルの王となった時、神様は何でも一つ、ソロモンの願いを聞くと約束しました。ソロモンは自分のことではなく、民の事を考え、民を治めていくためには、知恵が必要だと神様に願いました。神様はソロモンの願いをかなえ、大きな知恵を与えたと聖書に記されています。ソロモンはその知恵を存分に発揮し、箴言と伝道者の書を記したと考えられます。

伝道者の書は1:2-3の有名な言葉「空の空。すべては空。日の下でどんなに労苦しても、それが人に何の益になるだろうか。」に代表されるように、人の空しさ、小ささを前面に押し出しています。私たちは日ごろ、自分たちの人生を俯瞰で見るということはあまりしないかもしれません。毎日そんなことをしていたら、それはに「地に足のついていない生き方」となり、生活すること自体が困難になります。しかし時には自分の人生を俯瞰で見ることは大事なことです。人生の目標を見つめて生活するのと、全く目標を定めずに生活することは大きな差になります。箴言はどちらかと言えば、生活する上での具体的な指導ですが、伝道者の書は人生を俯瞰してみて、人生の目標をどこに置くのか考えさせる書となっていると言えるかもしれません。

人生を俯瞰してみた時、伝道者は一つの事実に目を向けます。「すべてのことは、すべての人に同じように起こる。同じ結末が、正しい人にも、悪しき者にも、善人にも、きよい人にも、汚れた人にも…来る(9:2)。」善人にも悪人にも同じように良いことも、悪いことも起こり得るということです。それだったら自分の好き勝手に生きた方が得ではないか。悪いことをいくらでもしようではないかと考えるかもしれません。ソロモンもそう見ていたようです。「そのうえ、人の子らの心に悪が満ち、生きている間は彼らの心に狂気があり、その後で死人のところにいくということだ(9:3)。」そのような人生が本当に得でしょうか?

「しかし、人には拠り所がある(9:4)」とソロモンは考えます。神様は人が空しい、小さい生き物だと知っておられますが、人の一日一日の労苦の業を祝福しておられるということです。私たちの一つ一つの仕事に、私たちの目から見てそれが大きい仕事であろうと、そうでない仕事であろうと、神様は祝福しておられます。私たちの労苦を全てご覧になり、共に働き、実りを与えて下さるお方です。だから私たちは神様と一日一日の労苦を共に過ごすことが人にとっての全てであるとソロモンは結論します。「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。 神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである(12:13)。」私たちはこの地上での働きの成果を、死後の世界に何一つ持っていくことはできません。そういう意味で私たちの労苦はとても空しいです。しかしその労苦一つ一つが神様と共に過ごしたものであれば、神様との関係は死後の世界に希望を与える持つ唯一のものとなります。この地上での小さな営みを神様との関係の内に、過ごしていきたいと思います。

お祈りの課題
  • 昭島教会に集う方々、ご家族のために
  • 6-7月に初めて来られた方々、久しぶりに来られた方々のために
  • キッズフェスタのために
  • 川越教会のために
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祈祷会メッセージとお祈りの課題

他人は救ったが、自分は救えない

同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを嘲って言った。「他人は救ったが、自分は救えない。キリスト、イスラエルの王に、今、十字架から降りてもらおう。それを見たら信じよう。」また、一緒に十字架につけられていた者たちもイエスをののしった。
マルコ15:31-32

マルコの福音書も終わりに近づきました。イエス様が十字架にかけられる場面が描かれています。イエス様には何の罪もありませんでしたが、私たちすべての人のために十字架にかかり、代わりに刑罰を受けてくださいました。救い主イエス様はそのためにこそ、地上に来られたのです。イエス様の十字架と復活は一番大事なことですので、4つのすべての福音書にその出来事が記されています。

イエス様が十字架に架けられている時、ほとんどの人はイエス様の救いの意味を理解していませんでした。弟子たちを含めすべての人が理解していなかったと言ってもいいかもしれません。多くの群衆が、十字架上のイエス様を見て、自分と関係があるとは露ほども知らずにののしり、あざけりました。その一つとしてマルコの福音書は祭司長、律法学者の言葉を記しています。彼らはイエス様が救い主、神の子、イスラエルの王であるという噂を聞いていました。イエス様は数多くの奇跡を起こして、たくさんの人を癒し、救ったと聞いていました。しかしそのことを認めず、むしろ自分を神だというイエスは死罪にあたると考えていたのです。しかしもし今、イエス様が十字架から降りることが出来たら、それを信じると言っています。救い主であれば、神の子であれば十字架から降りる、そして何事も無かったかのように、傷一つ負っていないという奇跡を起こせるはずだと考えていました。たくさんの人を救ったというのだから、自分一人を救う位わけないだろうという考えです。

しかし、この祭司長、律法学者の言葉はとてもナンセンスです。「救い主」という存在をまるで理解していない言葉です。嘲る言葉ですから、わざとナンセンスにしたのかもしれませんが。確かにイエス様は神様ですので、やろうと思えば十字架からすぐに降りることができます。しかしそれはできません。なぜなら今、イエス様が十字架に架かって刑罰を受けているのは、自分のためではなく、他の人のためだからです。そして十字架にかかるためにこそ、イエス様は地上に来られたからです。もし今、イエス様が神の力を使って十字架から降りてしまったら「自分は救えるが、他人は救えない」ことになってしまいます。それはもはや「救い主」ではありません。

イエス様は「救い主」だからこそ十字架から降りないのです。他の人を救うために自分を犠牲にしているからです。他の人を救うためには自己犠牲の愛を持っていなければなりません。「他人は救ったが、自分は救えない」のではなく、「他人を救うために、自分を救わない」のです。祭司長、律法学者の論理は一見正しいように見えますが、自己中心の愛の論理です。神様の愛を正しく捉えていません。神様の愛は自己中心ではなく、自己犠牲の愛です。私たちはイエス様を救い主として信じ、その愛を受けています。感謝して神様の愛を受け取りたいと思います。そして私たちも自己中心からきよめられ、少しでも自己犠牲の愛を持つものへと変えられ続けたいと思います。

お祈りの課題
  • 昭島教会に集う方々、ご家族のために
  • 5-6月に新しく来られた方々、久しぶりに来られた方々のために
  • FMTC、修養会、キッズフェスタのために
  • 青梅教会のために