主に拠り頼む

それゆえ、神である主はこう言われる。「見よ、わたしはシオンに一つの石を礎として据える。これは試みを経た石、堅く据えられた礎の、尊い要石。これに信頼する者は慌てふためくことがない。イザヤ28:16

 

聖書通読はイザヤ書に入っています。祈祷会ではイザヤ書から離れていましたが、戻ってきました。

イザヤ書は名前の通り、預言者イザヤが神様からの言葉を記した書物です。イザヤ書に限らず旧約聖書は、言語の高等批評研究によって、バラバラだったものが組み合わされたのではないかと言われています。イザヤ書も、イザヤ以外の後年の人が書いたものも混じっているとの見方もあります。しかしここでは全てイザヤが書いたと見ていきます。

イザヤは北イスラエル王国がアッシリアによって滅ぼされる前後で活動した預言者です。ユダの王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤ、マナセと多くの王たちの治世にまたがっています。イザヤ書で語られるメッセージは、イスラエルの堕落に対する神様の勧告、さばきと回復の預言、そして救世主メシヤの預言が含まれます。聖書の中でも特にボリュームが多い書物です。イザヤ書はまずイザヤの召命(6章)のこととイスラエルへの叱責から始まり、13章以降はイスラエル周辺の国々を巻き込んで、神様の裁きのメッセージが語られています。24章辺りから再びイスラエルの国の状態に目が向けられ、36~39章辺りには列王記や歴代誌との記述と並行した歴史的な記述、とくにヒゼキヤが王だった頃の歴史が書かれています。

28:1には「エフライムの酔いどれが誇りとする冠」と書かれ、酔っ払いの王様、あるいは貴族のような国の指導者たちの姿を連想させる記述があります。神様は彼らの姿を「彼らは酒に酔っていて、真の神様の言葉を軽く見てあなどっている。」と見ています。実際にいつも酒に酔っていたかどうかは分かりません。しかし民衆の事を考えず、贅沢三昧していたのは確かかもしれません。神様の言葉をあなどっていたかどうかは、彼らに言わせれば断じてそんな事は無いと言ったかもしれません。というのも、イスラエルは真の神様の国であり、真の神様の言葉によって国の方針を定めていることを誇りとしていたからです。王の周りには祭司や預言者がたくさんいました。そして王はいつも祭司や預言者の言葉によって国の方針を決めました。しかし神様から言わせれば、王様も祭司も預言者もみな、神様の言葉を軽んじている「酔いどれ」であり、本当の神様の言葉を一切聞かず、自分たちの好き勝手に聖書を解釈していたのです。

彼らは自分たちの知恵や知識により、「死と契約を結び、よみと同盟を結んでいる(28:15)」、「だから大丈夫。」と豪語していました。例え洪水が来ても押し流されない。死もよみも私たちを連れて行かないと考えていました。それに対して神様は別の一つの石を指して「わたしはシオンに一つの石を礎として据える。…これに信頼する者は慌てふためくことがない。」と言います。神様は他の方針を示して語っているのに、イスラエルの指導者たちはそれに聞こうとしませんでした。彼らの目にはそれがあまりに頼りなく見えたからです。しかし神様の「みわざは不可思議。働きをされるが、その働きは意外(28:21)」です。何を信じて、何に頼って生きているのか、それを神様は問いただしています。イザヤ36~37章にはアッシリアが攻めてきた時の事、まさに神様の不可思議な救いが記されています。圧倒的な武力を誇る軍隊から、常識では考えられない方法で神様は救い出されます。また新約聖書ではキリストがこの一つの石として紹介されています。キリストの十字架も一般常識からすれば死刑にされた罪人にすぎないかもしれません。しかしキリストの十字架は神様の救いの力なのです。目に見えるものによらず、神様だけを信じて歩みたいと思います。

お祈りの課題

  • 昭島教会に集っておられる方々、ご家族のために
  • 8-9月に新しく来られた方々、久しぶりに来られた方々のために
  • 大掃除、聖餐礼拝、宣教礼拝のために
  • 川越教会のために