神様に集中して祈る

もし、あなたが安息日に出歩くことをやめ、わたしの聖日に自分の好むことをせず、安息日を『喜びの日』と呼び、主の聖日を『栄えある日』と呼び、これを尊んで、自分の道を行かず、自分の好むことを求めず、無駄口を慎むなら、そのとき、あなたは主をあなたの喜びとする。わたしはあなたに地の高い所を踏み行かせ、あなたの父ヤコブのゆずりの地であなたを養う。──主の御口がそう語られる。
イザヤ58:13-14

 

イザヤ書後半は、神様からの慰めと癒しのメッセージが語られています。イスラエルの民は長年、うわべでは神様に仕えると公言してきましたが、心のうちでは神様を敬っていませんでした。他の偶像を拝み、外国を頼りにしてきました。神様はイスラエルの民からそのように裏切られ続けましたが、57:18にあるように「彼の道を見たが、それでもわたしは彼らを癒やす」と仰っています。主は怒ってイスラエルの民を戒めましたが、いつまでも怒ってはいないお方です。自分の罪を認め、悔い改める者には赦しと癒し、そしてきよめを与えて下さるお方です。

神様が私たちを赦し、癒し、きよめて下さるので、私たちは自分の罪に向き合い、それらを神様の前に差し出すことができます。もし神様が決して私たちの罪を赦さないお方であったら、私たちは裁きを恐れて、自分の罪を認めることはできないかもしれません。しかし神様が赦して、罪から救い出してくださるお方なので、私たちは自分の罪を認めることができます。

神様はイザヤ58章で、断食についてイスラエルの民に語っています。断食とは何のためにするのかという事を語っています。イスラエルの民は神様に対し58:3のように言っています。「なぜあなたは、私たちが断食したのに、ご覧にならず、自らを戒めたのに、認めてくださらないのですか。」断食は食事を全部、あるいは一部抜いて、神様に祈ることです。食事を抜くという事は大変なことですから、日常的なことではないでしょう。特別、祈りを聞いてもらいたいことがあるから断食するのです。しかし私たちは特別聞いてもらいたいことがあると、そのことにばかり目が向いてしまって神様が見えなくなることがあります。叶えて頂きたいことがあると、それが叶うまで神様は祈りを聞いてないと思い込むのです。あるいは58:3の後半のようにこうあります。「見よ。あなたがたは断食の日に自分の好むことをし、あなたがたの労働者をみな、追い立てる。」これは、断食の手順さえ正しく踏めば、神様は祈りを聞いてくださる。その他の時間に何をしても構わないということです。断食の祈りの期間はお腹がすくので、イライラがつのって家族や職場の人に八つ当たりするかもしれません。そんなひどいことはしないにしても、断食するのは健康にも良いことだから、一石二鳥かもとか考えるかもしれません。それでは目的がずれてしまっていないでしょうか。神様は目に見えず、私たちのペースで生きておらず、こうすればああしてくれるという取引先のようなお方ではないので、私たちは「ただ神様の前に断食する」「ただ神様に祈る」ということがとても難しいのです。神様は、イスラエル人たちにそれは断食か?それは祈りか?と問われます。あなたの心の中にはわたしは住んでいるのだろうかと問われます。

「もし、あなたが安息日に出歩くことをやめ、わたしの聖日に自分の好むことをせず、安息日を『喜びの日』と呼び、主の聖日を『栄えある日』と呼び、これを尊んで、自分の道を行かず、自分の好むことを求めず、無駄口を慎むなら、そのとき、あなたは主をあなたの喜びとする。」と神様は言われます。安息日は神様を礼拝する日です。出歩くことについては時代の変化もありますが、礼拝することに変わりはありません。神様を礼拝するのであれば、神様を礼拝しましょう。神様にしっかり集中しましょう。他の思いに引かれて「自分の道を行かず、自分の好むことを求めず」礼拝したいと思います。またお祈りをする時も、「自分の道を行かず、自分の好むことを求めず」すべてを信頼できる神様に委ねて祈りたいと思います。そうすれば、それは私たちは神様だけを自分の喜びにしてると言えます。そして神様はすでに私たちの祈りを聞いて下さったと実感できるはずです。

お祈りの課題

  • 昭島教会に集う方々、ご家族のために
  • 9-10月に初めて来られた方々、久しぶりに来られた方々のために
  • 合同宣教祈祷会のために
  • クリスマス準備のために
  • みずほ台教会のために