赦しを請う

主よ、あなたのみもとに帰らせてください。そうすれば、私たちは帰ります。昔のように、私たちの日々を新しくしてください。あなたが本当に、私たちを退け、極みまで私たちを怒っておられるのでなければ。
哀歌5:21-22

 

哀歌に入りました。哀歌は「エレミヤ哀歌」とも呼ばれます。70人訳聖書には、バビロニアによってエルサレムが陥落し、バビロン捕囚が始まった時に、エレミヤがこの哀歌を歌ったというような説明が書かれているからです。旧約聖書でもエレミヤ書の次に哀歌が並んでいますが、歴史の順番から言っても、この順番が良い位置なのかもしれません。エレミヤは南ユダ王国で活動した預言者です。神様がバビロン捕囚を計画されている事を人々に告げ知らせました。ユダヤ人たちは真の神様に仕えることを止め、他の神々や、諸外国の力を頼るようになりました。その結果、神様はバビロン捕囚を決めたのです。しかし人々は、エレミヤの言うことを信じず、他の預言者たちはエレミヤと逆のことを語りました。最終的にはエレミヤの言葉の方が正しく、エルサレムの町は攻め落とされ、徹底的に破壊されました。崩れ行く町を見て、苦しみ殺されていく人々を見て、エレミヤは嘆いています。自分の方が正しかったからと言って勝ち誇ることは出来ません。苦悩の言葉を語り、迫害を受け、自身の言葉の通りになって、また苦悩しているエレミヤの様子が伝わってきます。

エレミヤはこのような悲惨な結果になったのは、自分たちの罪のゆえであると、ユダヤの人々を代表して嘆きます。1:18にあるように「主は正しい方である。しかし、私は主の命令に逆らった」のです。神様はユダヤの人々との契約を守り、祝福を与えていました。しかしユダヤの人々は契約を破り、神様を捨てて罪をおかしたのです。そして今、エレミヤは神様に伺いを立てています。神様の前に自分たちの罪を悔い、赦しを求めています。そして可能であれば、もう一度神様の民として、神様と共に歩む事が出来ませんでしょうかと伺っています。「主よ、あなたのみもとに帰らせてください。そうすれば、私たちは帰ります。昔のように、私たちの日々を新しくしてください。あなたが本当に、私たちを退け、極みまで私たちを怒っておられるのでなければ(哀歌5:21-22)」ここには、人の罪と神様の赦しの本質が描かれているように思います。罪をおかしたのは人間です。ですから赦す、赦さないは、人間の自由にはできません。赦されなかったとしても、文句は言えないのです。キリスト教会では、「罪を告白すれば赦されます」と教えますが、それは自動販売機にお金を入れればジュースが買えるというようなものではないのです。赦す、赦さないは、人が罪を告白したかどうかにかかっているのではなく、神様の判断なのです。ですからエレミヤは「あなたが本当に、私たちを退け、極みまで私たちを怒っておられるのでなければ」お赦し下さいと語ります。

ユダヤの人々は何十年にも渡って神様を拒み続けました。私たちも自分の罪を振り返ると、決して赦して頂けないのではないかと思います。しかし「主は あわれみ深く 情け深い。怒るのに遅く 恵み豊かである。主は いつまでも争ってはおられない。とこしえに 怒ってはおられない(詩篇103:8-9)」お方ですから、感謝します。神様の恵みのゆえに、赦されて、新しい日々を歩めていることを感謝します。

お祈りの課題

  • 昭島教会に集う方々、ご家族のために
  • 最近、初めて来られた方々、久しぶりに来られた方々のために
  • 伝道礼拝、映画会、交換講壇礼拝のために
  • クリスチャンのしゃべり場のために
  • 小金井教会のために